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2020年01月10日21:28

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北区桶狭間3場

3.

榎本 (「共振」のプラカードを支え)共振。どうですこれ、分かりますか。例えば琴の調弦をしますな。触れておらずとも隣の弦が震える勘どころがある。弦と弦とのあいだに何もないと考えちゃあいけません、目に見えない何かがある。謎のマターですな。わしらは、謎のマターに橋渡しされた空間で生きているのかも知れんですぞ。早い話が大黒屋光太夫、ベーリングに漂着した商船の連中がペテルブルクで見たあのサーカスですよ。トランポリンをご存知か。帆布をバネで張って田楽猿回しの芸をご覧じる曲芸です。あれがね、足腰のバネでうまーく帆布のバネを相殺すると、顔は動かず周りの世界だけが動くごとなる。やってみましょうか、ほれ、こうです。がこがこがこがこがこ、そして、止めようと思えばピシリと止まる。どうですかな、傀儡師の遣り手ですな。ここシベリアでもこの伝で、バネのある馬車を求めようと散々苦労しました。ところがあにはからんや、御者も馬車屋も、バネなんか物の役に立たん、どころか一晩で軸棒が折れて泥ぬたでひがな修理に手間取るのが関の山と申すのですな。ツンドラはただの泥道ですさ。しっくいだの石畳にするには百年からかかろう。夏になると凍土が融けて深さ三尺のぬかるみになる。しかも雪解けの氾濫ときた。チュメニからトムスクまで一五〇〇キロ、タイガの手前でブユと洪水とやくざな軸棒に煩わされて、神経の弱いやつならすぐと引っ返すような道程です。
駅の書記は私に次のような道を取れと勧めてくれた。自前の御者を雇ってまずヴィユンとかいうところへ行く(※その地名は現存しない)。それからクラースヌィ・ヤールへ行く。そこから小舟に乗って十二露里行くとドヴブローヴィノに出る。そこなら駅馬車が出るはずだと。なるほどその通りにしたら、アンドレイという百姓の家に連れて行かれた。彼は舟を待っている。「はあ、舟かね、舟はあるでさ。今朝がた早く議員さんとこの秘書をドゥブローヴィノ(そりゃどこだ)へ乗せていきましたんで、追っつけもどりましよ」。だがこれがいつになっても戻ってこない。「とんだ野郎に漕がせてやりましただ。まるで愚図な野郎で、風が怖くて舟が出せねえんだ。まあね、吹くことはもうえろう吹きますわい」。ぼろぼろの羅紗を着たはだしの馬鹿がひとり、ぐしょ濡れになって「ベ、バア。メ、マア」と叫んで歩いている。何とも侘しい光景だ。
昼過ぎになるとアンドレイのところへひどく太った百姓がやって来た。首などまるで牡牛のよう。でかい拳をしている。ピョートル・ペトローヴィチと名乗るそいつが「旦那はロシアからですか」「左様」「いっぺんも行ったことがないです。まんずここじゃトムスクへ行っただけでも世界を見たような自慢ですからな。新聞じゃもうじきここまで鉄道が敷けるそうですが、なんですね旦那、機械が蒸気でいごく――そこまでは分かりますが、村を通る時に百姓家を壊したり人を潰したりしませんかね」「鉄道は二本のレールの上を行くんだ、馬やトナカイみたいに横には逸れんよ」「ははあ、そんなもんでやすかねえ」。このでぶはトムスクどころかイルクーツクへもイルビートにすら行ったことがあり、トムスク止まりのアンドレイには一種鷹揚な態度で接していた。ピョートル・ペトローヴィチが言う。「旦那、あっしゃ思うんですが…シベリアの奴らは気の毒でさ。物資は郵便でどんどん来まさ、しかしね、無学がどうにもなりませんや。ジャガイモこさえて御者でもするほかにゃなにひとつできるこっちゃねえ。魚ひとつ取れねえんです。退屈な奴らでさ。あいつらといると際限なく太ってきます。智恵や魂の足しになる物なんざこれっぱかりもねえ。そりゃひとりひとりは善良です。ここはロシアですからね、みんなそれなりの人物で、気立てもいいし盗みをするじゃなし、喧嘩も大酒もしやしません、人というよりは金の延べ棒ですな。それでいて世の中のためになにかするなんてこたあなくて、一文の値打ちもなくくたばってくんです」。「働いて食べて着てさえいれば、その上何が要るんだね」「人はね? やっぱり、なんのために生きるかを知っていなきゃあいけやせんや」「そんなことはペテルブルグの人だって知らんよ」「そんなはずはねえ! 人間は馬車馬じゃありやせん。ありていに言や、シベリアには『道』ってもんがねえんです。人の道がなけりゃ充分に生き延びることもできやしねえ。早い話が俺がね、ここのアンドレイを咎もなく牢にぶちこんで、こいつの餓鬼らに物乞いさせることだってできる。道ってもんがねえからです。俺たちが生まれたことは帳簿に書いてあるきりで、イワンだセルゲイだ言っても狼と変わりはねえんでさ。それなのにこいつは額に三度十字を切りゃそれでもういい気でいるんだ。そんで五〇〇だか八〇〇だかのルーブルをため込んで、ため込み損でそこいらでくたばるんだ。こいつが人間でしょうかね」。メ、マア。ベ、バア。馬鹿がどこかで叫んでいる。シベリアの夜は長い。
翌朝。「神よ、祝福あれ。さあとも綱を解け!」船頭が表で叫んでいる。ろくでもない氾濫は見渡す限りを濁った沼にしているが、「漕げ、漕げ、みんな。話はあとでもできるぞお」舵取りが言う。もし小舟が転覆したらと私は小さくなっている。ブリヤートの女房がなにも言わすに乗っている。

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