爆弾へ自ら点火した愚者がこちらへ歩いてくる。
その爆弾の爆発を目の前の愚者らが白痴のように待ち続ける。
本作はそんな我々の物語だ。
DCコミック最大のヴィラン。
名前と容姿だけならだれもが知っているジョーカー。
本作は、そのジョーカー誕生を社会風刺を交え叩き付ける。
ジョーカー――ホアキン・フェニックスの怪演と、
受け手の心を削り取る爆発しそうな映画の空気がすさまじい。
本作はジョーカーを徹底して「弱者」に描く。
金、夢、友人、恋人なんにもない。
社会は彼を見捨て、精神も病む。世界が彼を拒絶する。*1
同時にジョーカーは「弱者」ゆえ「無敵」だ。
自身に残酷な世界などいらない。火を放ち、人を殺し、群衆を煽り、
その存在が暴力を呼ぶ。*2
映画はジョーカーに社会を“仮託”するのだ。
虐げられる者には冷酷な世界を打ち砕くヒーローに映り、
以外には社会を破壊するヴィランに映る。*3
すぐれた点は2つだろう。
1つめはジョーカーと世界のどちらも愚か物に描く部分。
ジョーカーは、結局、自分勝手に爆弾に火を点け、社会を破壊するルサンチマンだ。*4
ただ、一方でジョーカーを無視した社会も愚か物だ。
目の前の爆弾を解体せず、ただ眺めて死ぬのを待つ。*5
もう1つはこれだけ社会的テーマを重視しながら、
本作が「バットマンサーガ」の前日へ叶う部分だ。
ヒーローの“物語”が妄想の影から生まれ誕生する。*6
その社会風刺とコミックを抜群のバランス感覚で融合した力作だ。
※1 ゴッサムは財政負担の解消に精神疾患患者の福祉を打ち切る。アーサー = ジョーカーは精神の安定がむずかしくなり、この場面を境に急速に崩壊していく。
※2 自爆を決意しただれもが「ジョーカー」――物事を断つ「切り札」になれる。その「自爆」の決意を抱く者が1人で命を絶つことなどありえない。
※3 唯一確実な部分は1つ。本作が描くジョーカーは、だれもがなれ、実際、「現実」に顕現可能だ。だが、その顕現したヴィランをとめるスーパーヒーローは「現実」には存在しないということだ。
※4 アーサー = ジョーカーは勝手に壊れ、勝手に恨み、我慢せず不満を爆発させ社会の敵と化す。同情の余地などない。
※5 だが、そのアーサーの困窮を社会は放置し見捨てる。わかっていながら穴に蓋をして「見えないように」「触らないように」“ごまかす”。穴の中で火薬に匂いがし始めた。だが、彼の体へくくりつけられた爆弾を一緒に解体せず、ライターも取り上げず、かんがえすらもせず爆発を待つ。ならこちらもすべてに同情などできない。
※6 本作は解釈に様々な幅が存在する(同時にそれが作品の強度でもある)。そのままアーサー = ジョーカー誕生の継起を描く「現実」だという解釈。もう一方はなにからなにまでアーサーの語る妄想「虚構」だという解釈だ。ただ、どちらにせよジョーカーの存在によって、本作以後に「バットマンサーガ」――非現実的で御伽話的なコミックの“物語”が続いて行く。これ以上の落し所はちょっとないだろう。完璧に近い。
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