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2019年08月04日22:47

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その常識は一般的か

アメリカでまたもや銃の乱射事件がありました。メキシコからの移民への反感が動機ではないかと言われており、もはや国境に壁を作るのは不法移民を防止するためと言うより、不法移民に対する反感が原因で起こる犯罪を減らすために必要なのではないかと思えてきます。ヒスパニック系の市民に自己防衛のために銃の所持を促進するような活動が起こったら、規制撤廃派はどう反応するのだろう、と思ったりしますが、黒人が「怪しい」と言うだけで警官に殺されたり、暴行を受けたりと言った歴史(今も続いているかもしれませんが)を考えれば、そんな活動は想像するのも恐ろしい、と言う感じかもしれません。

先日2019/08/01の日記で教育で常識を憶える、と書きましたが、知識とも思わずに判断基準にしている知識も人にはたくさんあって、民族性やお国柄、と言うのも教育されたと意識せずに「常識」として受け入れていることの多い代表でしょう。それは、〇〇民族、や、××人、だけでなく、「渋谷で徘徊する若者」とか、「品川駅前の飲み屋帰りのサラリーマン」のレベルに至るまで、日常に蔓延しています。それがたくさんの人に共有され、利害にかかわる判断に用いられると、それは「差別」になります。しばしば、統計的な事実に基づいているのが厄介なところで、個人の資質や個別の事情が無視されているにもかかわらず正当化されてしまうのです。

怖いのは、当人が間違ったことをしていないと心から信じていることで、下手にそれを指摘すると、「なんて非常識なことを」と思われることです。それは、前述の「怪しい」黒人に対して警察官が「自分が殺されてからでは遅いからやった」と主張するのと同様に、一面からすれば正しいことで、統計的な根拠の例にもれず、完全に否定することはできません。とは言え、ひとりひとりの基準に対してはどの程度「一般的」で「社会の基準と合致しているか」は未知数ですから、誰かが「彼らはこうだ」と言ったら、答えられるのはせいぜい自分の経験と一致しているかどうかくらいで、それ以上のことは否定も肯定もしないのが無難なのかもしれません。
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