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2019年07月25日07:01

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ガタピシ、我他彼此!

  先の土曜日の興聖寺での「坐禅と法話の集い」の折、老師が「ガタピシって言葉を知っていますか?」と言った。「建付けが悪く戸がガタピシする、とか、人間関係がガタピシするという風に使うでしょ!」と。老師は「我他彼此」と板書して「これはね、仏教用語なんですよ」と。私奴は、モッパラ園山俊二のマンガを思い浮かべていましたが。
「現成公案」の巻の冒頭の一節を取り上げた法話の中で出てきた言葉だ。

 実はこの法話、先の土曜日で第4回目なんです。毎回1時間ですから、すでに3時間が経過しているのですが、未だ冒頭の一節(たった二行の短い文なんですが)の説明が続いている。老師としては、アッチからコッチからと様々な角度からの話をなさっているのだ。
老師は「毎回、新しい人が参加されているようだから、繰り返しが多くなるのですが」と言っておられるが、どうやら真実はどうも聞き手の皆んなの顔つきを見て「イマイチ理解できているのやら?」と不安を感じておられるのが正直なところのようだ。
「ここは一番大事な箇所なんで何度もお話いたしましょう」という事で、頭書の「ガタピシ、我他彼此」の話と相成った訳。

 「現成公案」冒頭の一節とは、「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」だ。ここの「万法ともにわれにあらざる」の「われ」とは、「我他彼此」と言った時の「我」と同じなのだと老師は言う。

 ご存知のように仏教では、「われ、わたくし、我」なるものは本来存在しないのよと教える、「無我(我なんて何の実体もない)」「諸法無我(あらゆるものには実体はない)と」ってね。だとすれば、「私とあなた」だとか「彼と此(彼岸と此岸とか)」とか、区別というか弁別して考えることには、本来的には大した意味合いはない。ところが、私奴らは何かにつけて「私は」とか「私のもの」とか言い張り、結果として物事や人間関係をギクシャク・ガタピシさせる。
(で、「我他彼此」なんて仏教用語が生まれるって訳。本来は、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」で、それぞれが相互依存の関係にあり、「我と他」「彼と此」を対立させて考えるべきではないのよ、とお釈迦さんはおっしゃる)

 で、元々の老師の話にもどると、「万法ともにわれにあらざる時節」という一文は、「全てものについて我という実体は無いと考える時には」というふうに解釈すべしとなります。

 以上が「我他彼此」にまつわる話なんですが、最後に「現成公案」冒頭の一節について、老師のお話を私奴なりに聞き取った内容を書いておきましょう。

 「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」を意訳すると、
「仏の教えに耳を貸すと、まことこの世は有の世界で、「迷い」や「悟り」があり「修行」があり「生」や「死」があり、救いの手を差しのべる「諸仏」がおられ煩悩にさいなまれる「衆生」がいる。また同時にこの世は空の世界であり、我というものに囚われること無ければ「迷い」も「悟り」もなく「仏」も「衆生」もなく「生」も「死」もない。
(下手な一文、ご容赦!)

 さて今日は、午前中は陶芸工房で子供体験教室サポートし、午後に学校へ出かける。忙しい一日になりそうだ。
 
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