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2019年06月22日02:33

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6月22日が誕生日、忌日となった人々

今日が誕生日の人々です。

1859年(安政6年5月22日)、文芸評論家の坪内逍遥ガ生まれています。『小説神髄』の著者。同著では上巻において、小説で大切なことはまず人情を描くことで、次に世の中の様子や風俗の描写であると論じ、下巻において具体的な方法を示しています。明治に入ってからの日本文学は、江戸の戯作の流れを汲む戯作文学か、西洋の思想・風俗を伝え啓蒙するための政治小説が中心でしたが、『小説神髄』は道徳や功利主義的な面を文学から排して客観描写につとめるべきだと述べ、心理的写実主義を主張することで日本の近代文学の誕生に大きく寄与しました。小説も書きました。『当世書生気質』がそうです。「はしがき」において、逍遥は、本作が、『小説神髄』で示した、勧善懲悪を否定し、写実主義を主張する文学論を実践したものであることを明らかにしています。明治初年の書生社会の風俗と気質をうつすことを主眼として、下宿生活、牛肉屋、楊弓店などで書生らが遊ぶ様子も描いています。日本近代写実小説の第一として、『小説神髄』に展開された理論の具体化であるとされます。また、シェイクスピア全集の翻訳や戯曲『桐一葉』なども残しています。たかが戯作者ニシカ過ぎなかった小説家を文学者にまで引き上げた功労者です。彼がいなければ、作家なんてただのヤクザな物書き商売に過ぎずに終わるところでした。
1903年、その小説家の一人である山本周五郎が生まれました。代表作は『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』の二冊に尽きるでしょう。たびたび舞台化され、TVドラマにもなった『さぶ』も佳作です。
1911年、三光海運(現:三光汽船)の社長にして政治家の河本敏夫が生まれています。三木武夫が率いる三木派の大番頭。三木とは姻戚関係でもあり、三木の娘婿の兄弟と河本の娘が結婚しています。1985年、事実上のオーナーだった三光汽船が海運不況のあおりを受けて倒産し、竹下登や金丸信の支援により民事再生法申請にこぎつけました。2001年5月24日、心不全のため東京都新宿区信濃町の慶應義塾大学病院で死去。享年89歳。
1923年、新劇俳優の木村功が誕生。俳優座出身。映画畑では黒澤明監督に気に入られ、『野良犬』、『生きる』、『七人の侍』、『天国と地獄』など立て続けに出演しました。1950年、保守的に傾き始めた幹部たちと対立して俳優座を退団した木村は金子信雄、高原駿雄らと「青年俳優クラブ(劇団青俳)」を結成、劇団の中心的存在として活躍しました。一方、『人間魚雷回天』、『米』、『宮本武蔵』、『関の弥太っぺ』、『暗殺』、『雪国』など大作・話題作映画に出演。『山びこ学校』、『真空地帯』、『雲ながるる果てに』、『足摺岬』、『樹氷のよろめき』など独立プロ製作の作品にも多数出演し名声を確立しました。1981年7月4日、食道癌のため58歳で死去。
1936年、安達流華道の家元、安達瞳子が生まれています。
1948年、俳優の笹野高史が誕生。コミカル、シリアス、真面目、堅物と、どのような役柄でも独特の味わいを見せます。山田洋次監督作品の常連でもあり、時代劇には欠かせない存在です。だから『釣りバカ日誌』シリーズ でも常連。『男はつらいよ』シリーズにも11作モ出演しています。NHK大河ドラマにもたびたび出演しており、『天地人』での豊臣秀吉役は見事にはまっておりました。意外に思われるかもしれませんが、歌舞伎の舞台もたびたび踏んでいます。『コクーン歌舞伎』、『平成中村座』などにも出演し、「夏祭浪花鑑」長町裏の場、通称「泥場」での悪役、義兵次、『隅田川続俤』通称「法界坊」などに出演しました。新派にも水谷八重子、波乃久里子の相手役で参加する事があります。
1949年、TVドラマ『地上最強の美女バイオニックジェミー』デ主役を務めたリンゼイ・ワグナーが生まれました。
1953年、アメリカの歌手にして女優のシンディ・ローパーが生まれています。大変な親日家で、紅白歌合戦にも中継ではなく出演している程ですが、私は彼女に殆んど興味がないのでこのくらいでパスさせていただきます。
1964年、俳優で、雑誌『ノンノ』『メンズノンノ』のカリスマモデルでもあった阿部寛が生まれました。2000年、仲間由紀恵と共演したドラマ『TRICK』では、劇中で自身のモデル時代の写真を自虐ネタとして多用するなど、徹底して三枚目の役を演じました。2012年には、映画『テルマエ・ロマエ』にて、『古代ローマ帝国の浴場設計技師』を演じきり、第34回ヨコハマ映画祭 主演男優賞、第55回ブルーリボン賞 主演男優賞、第36回日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞』を受賞。40歳を越えてなお独身で、目立った恋愛報道も無いところところから、巨大掲示板群「2ちゃんねる」ではGAYであるとの指摘が絶えませんでした。そうしたイメージがさらに定着していた中、2007年11月20日、15歳年下の元OL(当時28歳)の女性との結婚を記者会見で発表。
1966年、シンガーソングライターの斉藤和義ガ誕生。「ずっと好きだった」「やさしくなりたい」あたりが代表的なヒット曲。
1967年、ビートタケシの弟子、漫才コンビ「浅草キッド」のボケ役、玉袋筋太郎が生まれました。一般社団法人全日本スナック連盟会長。もつ焼きト煮込みで有名な居酒屋「加賀屋」の中野坂上店の常連でもあります。
1982年、新日本プロレス一筋に生きてきた内藤哲也ガ生まれています。チャンピオンベルトを蹴っ飛ばしながら入場してくるという特徴があります。アニマル浜口トレーニングジム出身。現在では新日本のトップレスラーの一画を占めています。「トランキーロ、焦んなよ!」が決め台詞。

では、そろそろ忌日ニ移りましょうか。

1205年、知勇兼備の武将として常に源頼朝軍ノ先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなしました畠山重忠が、頼朝の没後に実権を握った初代執権・北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子(畠山重保)とともに討たれました(畠山重忠の乱)。享年数え42歳。
1925年、ドイツの数学者、フェリックス・クラインが76歳で亡くなりました。群論と幾何学との関係、関数論などの発展に寄与しました。クラインの壺の考案者。ダフィット・ヒルベルトやあの大天才、アンリ・ポアンカレといった次の世代の数学者に影響を与えました。クラインの側は若き日のポアンカレを何故か嫌っていたそうですが。
1969年、アメリカの女優、歌手であるジュディ・ガーランドが47歳で死去。睡眠薬の過剰摂取にてバスルームで死去のですが、自殺とする説もあります。1939年にミュージカル映画『オズの魔法使』で主役ドロシーに大抜擢され、人気スターに。この役でアカデミー子役賞を受賞。以後、当時の大スターだったミッキー・ルーニーとコンビを組むミュージカルシリーズ、『若草の頃』『ハーヴェイ・ガールズ』、フレッド・アステアと共演する『イースター・パレード』といった娯楽大作で主役をつとめました。離婚後、自殺未遂事件を起こします。以降、度々薬物治療のための入退院を繰り返すこととなりました。1945年、映画監督のヴィンセント・ミネリと再婚。翌1946年3月、のちに女優および歌手となる娘ライザ・ミネリを出産。1950年にヴィンセント・ミネリと離婚。1952年にシドニー・ラフトと3度目の結婚をし、彼や友人のビング・クロスビーたちの勧めに従ってハリウッドを離れ、ロンドンやニューヨークで歌手としてステージ活動を行います。これが成功し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力が人々に再認識されるのです。1954年、ワーナー・ブラザースで撮影された『スタア誕生』で久々の映画出演を果たします。1961年、彼女は7年ぶりに映画に出演。『ニュールンベルグ裁判』でバート・ランカスターやマレーネ・ディートリヒと共演し衰えない演技力を見せました。また、同年行ったカーネギー・ホールでのコンサートを収録したライブ・アルバムはグラミー賞のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれ、ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞を受賞しました。1965年にはシドニー・ラフトとも離婚。その後、2度結婚しています(生涯に5回結婚)。
1987年、アメリカのの俳優、ダンサー、歌手のフレッド・アステアが88歳デ死去。舞台から映画界へ転じ、1930年代から1950年代にかけてハリウッドのミュージカル映画全盛期を担いました。当時の大手映画会社の1つであったが経営難にあったRKOと契約しジンジャー・ロジャースとコンビを結成、1933年以降、主演映画作品において華麗なダンスを披露しました。1953年には、ヴィンセント・ミネリ監督の豪華な大作『バンド・ワゴン』に主演しました。本作はアステアの長いキャリアにおける一つの頂点と見なされています。1987年8月22日に、カリフォルニア州ロサンゼルスで死去しました。
1994年、クレージーキャッツノ元メンバー(途中で脱退)でピアノ担当の石橋エータローが66歳で死去。父親も音楽家デアッタ福田蘭童。GAYノ巣窟である暁星中学校に在籍、先輩にコレモGAYの桜井センリがいたことから、エータローモGAYであると言われています。1960年6月、結核で肋骨を6本整形する手術を受けたために一度芸能活動を中断するも1961年8月には復帰、以降は彼の代役としてメンバーに加わっていた桜井センリと共にピアノを演奏することとなりました。1970年12月31日、心臓病が原因でクレージーキャッツを脱退。「クレージーをやめて、また芸能界の仕事をすれば、なにか不満があったのだろうと言われますから。それだけはいやだった」と理由で芸能界を引退し、同年から料理研究家として活動すると同時に、東京渋谷区桜丘町で酒と肴の店「三漁洞」を経営していましたが、1994年、胃癌が原因の心不全のため東京都品川区の昭和大学病院で死去。66歳。かつてクレージーのメンバー全員を揃えた催し物がTV伴組がありましたが、エータローは手料理を持参して駆け付けました。メンバーガ「旨そうだなあ」と目を輝かせていたのを尻目に、リーダーのハナ肇は、メンバーヲ制して、エータローに「いいからこっち来い」と命じました。このことから、エータローノ脱退はハナにとってははなはだ面白からざるものであった事が容易に察せられます。
1998年、奈良の薬師寺管主であった高田好胤(こういん)が74歳で亡くなっています。分かりやすい法話により「話の面白いお坊さん」、「究極の語りのエンタテイナー」とも呼ばれ、関西ではよくTVに出演していました。渡司も大阪居住時代、よく見ていたものです。一方、百万巻写経勧進の道を切り開いて金堂、西塔など薬師寺の伽藍の復興に道筋をつけるなど、薬師寺の再生に生涯をささげました。
2000年、新劇俳優で演出家の滝沢修が肺炎のため東京都三鷹市の病院で死去。93歳没。リアリズムの演技を徹底的に追求した人物の一人で、その役作りと演技で「新劇の神様」と呼ばれました。『火山灰地』の雨宮聡などで優れた演技を見せ、人物造形の綿密さ、長台詞の味わいの深さ、重厚な演技で、新劇俳優では珍重すべきスターとしての素質の持ち主として期待されました。1950年(昭和25年)12月22日、劇団民藝を結成し宇野重吉ヤ森雅之とともに劇団の代表として活躍しました。1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人』ではゴッホを演じて芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞。その後の舞台の代表作に『セールスマンの死』のウィリー・ローマン、『かもめ』のトリゴーリン、『オットーと呼ばれる日本人』のオットー、『狂気と天才』のキートンなどがあります。最晩年まで俳優・演出家として舞台に立ち、1996年(平成8年)の民藝公演『俳諧師』の鬼貫役が最後の舞台出演、1997年(平成9年)の『あっぱれクライトン』が最後の演出作となりました。
2017年、キャスター、タレント、女優の小林麻央が癌のため、自宅で死去。34歳没。姉は元フリーアナウンサーの小林麻耶。夫はご存知の通り、2020年には市川團十郎白猿を襲名する予定の十一代目市川海老蔵。学校にも行かず、渋谷でチェーンを振り回していた堀越少年をここまで更正させたのは、ひとえに彼女あってのことでしょう。

それでは今日もここまでです!
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