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2019年02月02日12:08

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「あるがまま」と「あるべきよう」

 はや2月も2日。先月の24日で本年度の教室通いも終わり、以来4月新年度開講までは春休みモードに入った。月曜日こそ昼は陶芸工房に夜は大和西大寺の赤提灯に出かけたが、それ以外は閑居して「ヒネモスノタリ、ノタリかな」だ。

 実のところ「ヒネモスノタリ、ノタリ」な生活なのだが、取り組みだしたことが二つある。「禁煙にトライ」と「今年度後半受業の振り返り」。

 「禁煙にトライ」は、先月半ば家庭医にと思っているご近所の医院に先日出かけたら、お医者さんが「禁煙外来コースをやってみましょうよ」と。昨年来三度目のお誘いでもあるし最近睡眠中に咳や痰が出ることが多くなったことでもあるしと、「では、やってみますかね!」と一言いったのが始まり。二週間経った現在「余計な一言を吐いてしまったばっかりに!」と後悔気味。この先、どうなるかは我がことながら分からない。

「今年度後半受業の振り返り」は、昨秋から新しく始まった「倶舎論第5章 随眠(ずいめん)品」の講義録音を資料片手に再聴(10講義分、計15時間)。いわば半年分のオサライしている訳、現在5講義分終了。それにしても再聴すると、ほとんど頭に残っていないことが良く分かるなあ(「ボーっと聴いてんじゃあねーよ!」って叱られそう(^^))。
まっ、ここに書いても面白そうな話題があれば、いずれご紹介いたしましょう。

 ニ三日前、角川『俳句』誌二月号の小林一茶に関する連載記事の中に、小林一茶と夏目漱石の係わりに触れた上で、二人の間に通う「「あるがまま」という生き方」を指摘した箇所が目についた。

 生きた時代が異なる二人に直接的な係わりがあろうハズはない。二人の係わりについては、小林一茶の句(二十七句)を夏目漱石が書にし、小川芋銭が俳画を描いて添えた画帖仕立ての俳画集があるそうな。『三愚集』という。漱石筆の序文によると「三愚」とは三人の愚か者、一茶、漱石、芋銭をさすらしい(なかなか洒脱な序文だ)。

 この俳画集が世に出るに至った経緯や画集の内容を紹介しながら、件の連載記事は一茶と漱石の二人には、「あるがまま」の生き方(or美学)という点で底通するものがあると論じている。
(一茶については、『生きていゐるばかりぞ吾と芥子の花』や『何がしの寺で芭蕉会あり。門には蓑と笠とをかけたり。しかるに、けふは又ことさらに晴れたれば、さるもの、蓑に打水して其のぬれたるさまを見せたるも、かの翁の昔しのぶにはおもしろき企にこそあれ、一念の信、俳諧に遊ぶともがらには、かゝるわざくれの事も好ましからず。この身このままの自然に遊ぶこそ尊かるべけれ (あるがままの芭蕉会)』を例示。
漱石については『菫ほどな小さき人に生まれたし』や『世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい (草枕)』。を例示している。)

 一茶にも漱石にも疎い私奴としては「ナルホドねえ」と感心するばかりだが、「あるがまま」の生き方(ないし、美学)という言葉に触れて、ふと、前回の日記に書いた明恵さんの「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」という言葉を思い出した。

 ごくごく一般的な日本語としては、「あるがまま」と「あるべきよう」とはその意味内容は異なっていて、互いに相反するとも言える(前者は現状肯定的態度であり後者は理想(理念)追究的態度)。
では一茶・漱石にみられる「あるがまま」と明恵さんがいう「あるべきよう」とは、どういう関係にあるのだろうか? 異なっているのか? 底通するものがないのかどうか?

 齢傘寿を過ぎた爺ともなれば、モーロク頭をトロトロと動かせてでも、この辺りの事情に関して少しは考えてみるのも一興か思っている。それが老人力というものかも?
(愚禿親鸞なんて言葉に刺激されたかどうかは知らないが、浄土真宗だった一茶には「春立や愚の上に又愚にかえる」なんて句もあり、・・・・なんて妄想が渦巻く)

PS1:上掲写真は「デジタル画集|三愚集」より借用した。
   写真左:「痩蛙まけるな一茶是にあり」 
   写真右:「なんのその西方よりもさくら花」
  なお、『三愚集』は下記URLで全編を見ることができる。
  https://www.ogawa-usen.com/blank-13

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