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2018年07月28日14:58

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「業」のはなし part2(輪廻とその二つの原理)

 さて、前回は輪廻という考え方のオリジンらしき説である五火二道説なるものを紹介しました。
五火説なるものが何時の時代からインドに広まっていたかは定かではありません。が、ヤージュニャヴァルキヤという名の哲人が、二道説とコンバインして初期ウパニシャッドに纏めたと言われています。哲人ヤージュニャヴァルキヤは、お釈迦さんより百年か二百年前の人物のようですから、バラモン教で輪廻という考え方が固まったのは、お釈迦さん(ないし仏教)出現の少し以前のことだといえそうです。

(ここからは本来ならバラモン教での輪廻について書くべきかも知れませんが、長々した話になりますので、思い切って省略しましょう。一言だけ申し添えれば、バラモン教では個々人にアートマン(「我」「自我の本質」「霊魂」)なるものの存在を認め、それが輪廻するとしています(仏教ではご承知の通り「無我」として「我」の存在を認めていません))

 さて、以下は仏教でいわれる「輪廻」について。
広辞苑で「輪廻」を引くと、「〔仏〕(梵語 saṃsāra 流れる意)車輪が回転してきわまりないように、衆生しゅじょうが三界六道に迷いの生死を重ねてとどまることのないこと。迷いの世界を生きかわり死にかわること」とあります。
(ここで三界とは「女三界に家なし」(蛇足:私奴は絶対にこんな言葉は吐きませんよ!)という時の三界、即ち欲界・色界・無色界で衆生が活動する全世界のこと。六道はご存知、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のこと。なお、地獄〜天は、それぞれその場所を意味すると同時にその場所にいる衆生をも意味する。また、天は三界の中の欲界に含まれる天で、いわばレベルの低い天。)

 で、この六道(古くは五道であったが、後に修羅が加わった)を私奴ら衆生は生きかわり死にかわりするのだと云う訳ですが、ここに見落としてはならぬ重要な原理が二つありります。「因果応報」と「自己責任」という二つの原理。

 一つ目の原理「因果応報」とは、「善因楽果、悪因苦果」。善い行いをすれば楽が、悪い行いをすれば苦が結果として必ずもたらされると云うこと(この世でか、次の世でか、さらに先の世であるかは分からないけれど)。ここで「楽果」とは、その行為をした衆生にとって楽しい好ましい嬉しい結果であり、「苦果」とはその行為をした衆生にとって苦しい嫌な悲しい結果を意味する(従って「善因善果、悪因悪果」と云う言葉もありますが、仏教的には違うという事に注意する必要がある)。
二つ目の原理「自己責任」とは、善悪いずれかの行いも、苦楽いずれかの結果をもたらされるのは、あくまでその行いをした衆生自身にであるということ(即ち、自業自得)。
(よく「親の因果が子に報い」なんて、おぞましい科白が吐かれたりしますが、それは明らかな間違い。現状の日本では、この辺りの基本がかなりイイカゲンで誤解やら誤読やら、はたまた奇妙な話が多いのが実情)。

 以上に述べた輪廻の考え方は、インドの部派仏教(アビダルマ仏教)のそれであり、大乗仏教になると、かなり違った考え方が加わってくる(例えば、回向(自分が得るべき楽果を他の人に回すことで供養にあてるなどという考え方)のだが、まあ、そんな話はまたいずれ業の話の中で触れることにしよう)。

 輪廻については、取りあえずこの程度で基本の考え方を抑えるにとどめ、次回から本題の「業」について、オシャベリをつづけよう。
というのも、「善い行いは楽をもたらし、悪い行いは苦をもたらす」ということから想像できるように、輪廻と私奴らの「行い、業」とは切っても切れない関係を持っているのだから。「業って何?どんなこと?」を少しく齧れば、輪廻というものの理解自体も少しは深まるだろうから。
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