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2018年01月10日22:20

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32歳から始まる東京生活 5.『恰好悪いのって、嫌じゃないですか』 



  5.


「お疲れ様です。木原さん、ちょっといいですか?」

 仕事を終え、タイムカードを切ると、指示者の斉木《さいき》さんが声を掛けてきた。

「はい、何でしょう?」

「明日なんですけど、いつもより早めに会社に来ることって可能です?」

「もちろん大丈夫ですよ」

 頷くと、斉木さんは笑顔を見せながら丁寧に頭を下げてきた。

「ありがとうございます。では明日、私と一緒に現場に回って貰ってもいいでしょうか?」

「あ、はい。それで何時に来ればいいのでしょうか?」

 斉木さんは顎に手をやりながら黙考する。男前でありながら寡黙な仕草は椅子に座っていても絵になってしまう。

「そうですね。朝6時に、会社集合でもいいですか?」


 ◆◆◆


「今日は早く来て頂いてすいません。でも木原さんのおかげで助かりました」

「いえいえ、とんでもない。こちらこそ、斉木さんの動きが勉強になりました」

 現場の回収作業を終えた後、斉木さんは社用車の中で煙草に火を点けた。クールな表情とは裏腹に、現場の回収作業は瞬きも許さないくらいに早く熱気が籠っていた。

 おかげで肌寒い季節なのに、ワイシャツが汗ばんでいる。

「木原さん、こちらに来て頂いてまだ一か月ですよね。でも、これなら回収は一人でもお任せできそうですね」

「回収はできそうですが……施行はまだ難しいですね」

「そうですか? 木原さんなら、大丈夫ですよ」

 斉木さんの煙草に再び火が灯る。今日はちょっとした遠征で、隣の千葉県まで来ているのだ。高速を使っても1時間以上あるため、昼食は車の中で食べることになっている。

「いい天気ですね、久しぶりに遠出できて楽しいです」

「やっぱり指示者の方は大変ですよね。指示組みもいつも夜遅くまで残ってますもんね」

「まあ、やっぱり、それなりにですね」

 斉木さんは助手席で片手でハンバーガーを食べながらせわしなく会社携帯を扱っている。会社を離れていても、常に連絡が途切れていないようだ。

「今日は件数が多いですから、帰ったら花挿しが残ってますよ」

「本当ですか? 最近、現場ばかりで花を扱ってなかったので嬉しいです」

 顔を綻ばせると、斉木さんは小さく笑った。

「木原さんは花が好きでこの会社に来たんですよね? 羨ましい」

「斉木さんは違うのですか?」

「ええ、私は特に何かが好きという訳ではないですね。花挿しは仕事の一部として見てます」

 斉木さんは口元だけを緩ませながらアイス珈琲を啜っていく。

「先輩達が凄かったので、それに追いつくために必死でいたらここまで来たって感じですね」

「そうなんでしょうね。責任者の方達の動きを見ていたらわかります」

 頷きながら食後の珈琲を口に含む。地元にいた時との決定的な違いはプロ意識だ。花屋だからといって花にだけ真剣を注ぐのではなく、周りを見渡す視野の広さがある。情報のやりとりが圧倒的に多く、そこには妥協を許さない強い意思が感じられる。

「斉木さんは凄いですよね……俺は自分のことだけで手一杯なのに、他の人の動きまで見れるなんてできません」

「私も最初はそうでしたよ。皆、0からのスタートです」

「途中で投げ出したいなって思いませんか?」

「しょっちゅうですよ」

 斉木さんは曖昧な表情を作って笑った。

「でも、恰好悪いのって嫌じゃないですか。だから今はまだ、投げることはできないんです」


 ◆◆◆


 ……よし、今日も練習するか。


 業務を終えて、商品として出せない菊を取り出していると、二階の事務所から斉木さんが小さく欠伸をしながら降りてきた。

「木原さん、今から練習するんですか?」

「ええ、桑村《くわむら》さんに新しいものを教えて貰ったので。斉木さんは指示組みですか?」

「ですね」

 2人で缶珈琲を掴みながら、シャッター前のベンチに座る。時計を見ると、21時を過ぎていた。

「斉木さん、確か結婚されていましたよね? 帰らなくて大丈夫なんです?」

「妻も同業者だったので、問題ないです。木原さんは確か、されてないんですよね?」

「ですです。結婚なんて、今はまだ考えられないですよ」

「そうですか、でも少し羨ましい。一人の時間が少ないので、独身貴族に戻れたらな、とたまに考えてしまいます」

 斉木さんは珈琲を飲みながら深くため息をつく。その姿を眺めていると、整髪飲料で整った短髪から白髪が見えた。


 ……俺より若いのに、苦労してるんだな。


 他人事のように思いながらも尊敬の念を覚えていく。家に帰っても、やるべきことがあるはずなのに、いつも澄ました顔で淡々と仕事をこなしていく彼は誰の目から見てもプロだ。

「木原さんは花の修行を終えたら、地元に戻るつもりなんですか?」

「どうなんでしょうね。一人前になってから考えようと思っていますけど……斉木さんは?」

「話しても……笑いません?」

「ええ。もちろん」

頷くと、斉木さんは小さく鼻をかきながら答えた。

「実は……地元の横浜に戻って新しく支社を立ち上げたいと思ってます」

「おお、凄いじゃないですか」

 驚いて見せると、斉木さんは少しだけはにかみながら話し始めた。

「実は神奈川にも支部はあったんです。ですが、西東京支社ができることになって、一度解体されてしまったんです。そこに在籍していた人が東支社と2分割されてしまって……」

 なんでも得意先が場所を移動したため、そのまま支社を移動したらしい。だが彼にとって地元である神奈川は何より大切な場所であるようだ。

「妻とはそこで出会ったんです。ですので、私が1から作りたいと思ってます。やっぱり地元が一番ですし」

「そうなんですね。応援します」

 
 ……熱い男なんだな。


 斉木さんの表情が生き生きとしていく。夢を語る青年の瞳は若く、何色にも染まっていないようだ。

「恥ずかしいから誰にもいわないで下さいよ?」

「ええ、もちろん」

「……よかった」

 そういう彼の横顔は少しだけ赤身を帯びており、年相応の表情に戻っていた。

 
 


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