「え? 幕も張れないんですか?」
隣にいる松本《まつもと》さんが俺の顔を見て驚愕する。
「すいません、練習はしていたのですが……」
「……そうですか。じゃあその辺の掃除でもしておいて下さい」
松本さんの目の温度は下がり、俺の体も合わせるように硬直していく。 彼は流れるように紺色の幕を張っていく。その仕草には一点の迷いなどない。
……何もできない、それがこんなにも苦痛なことを忘れていた。
慣れない革靴が体をぐらつかせ、疲労がたまっていく。人の期待を裏切ることがこんなにも辛いことだったと、改めて思い知る。俺は何度この思いを経験すれば、一人前に慣れるのだろう。
「すいません、必ず練習してできるようになっておきます。なので……」
「木原さん、できるようになるだけじゃなく現場で生きるようにならなくちゃ駄目です」
松本さんは口元だけ緩ませて俺の言葉を遮った。
「もちろんわかっています、用途に応じて張り方が違うことも覚えました。だから……」
「そういうことをいってるんじゃないんです。幕を張るのはできて当然です。30秒、せめて1分以内にはできるようになって下さいよ、じゃないと使い物にならない」
……そんなこと、いきなり無理だろう。
心の中でため息をついて思う。初めて経験することなのに、いきなり彼と同じスピードでできるわけがない。
絶句していると、松本さんは俺にわかるように大きくため息をついた。
「現場ではやることが多いんです。木原さん、《《東京》》では時間がないんですよ」
◆◆◆
東京に来て2週間。
俺の体は着実に悲鳴を上げ始めていた。慣れない重い荷物を1トントラックに運び、スマートフォンを扱うだけでも手首が硬直していく。それでも、体を慣らすため、会社に居残り続け課題を探していく。
……今日はここを覚えよう。
会社の基本マニュアルを読みながら夕飯を食べる。周りから好奇の目で見られているのもわかっているが、仕事ができずに帰るよりは断然いいと思う。
この会社では基本、研修だからといって丁寧に教えてくれることはない。人の動きを盗みながら、自分で考えて覚えていかなければならないのだ。
「木原さん、ここで飯食うんですか?」
俺が食後の珈琲を啜っていると、松本さんはにやにや笑いながら俺を吟味し始めた。その目には田舎者は早く帰れといっている。
「ですね、覚えることがたくさんありますので。今日は幕張りの練習をします」
「別に練習するようなものでもないんですけどねぇ」
松本さんは余裕からなのか、顔を背けて口元を緩ませる。
彼は東京の花屋の息子で、俺の4つ下の青年だ。バイトとしてやってきた彼は3年目だが、すぐになんでもこなせるようになり、今では指示者として上の立場にいる。
「そんなに違うものなんですか? 地元のやり方と」
「ですね。本当に転職した気分です。でも大丈夫です、体力だけはありますから」
無理に笑顔を見せると、松本さんは何もいわずに2階の事務所に戻っていった。
……また一人、俺を玩具にするやつが増えたな。
邪魔にならない段組み場所を決めて、机を選ぶ。高さを揃えていよいよ幕を張ろうとすると、松本さんが突然、2階から降りてきた。
「木原さん、俺と幕張り勝負してみます?」
「すいません、それはできません。まだやり方もわかっていないので、それを自分なりに探っている状況です」
「……そうですか」
松本さんは面白くなさそうに場を離れるが、俺への視線は外さない。
……何がしたいのだろう。
体の中に熱いものが流れていく。自分一人で集中したいのに、呼んでもいないのに近づいてくる。正直にいえば邪魔で仕方がない。 俺が失敗している姿を見て笑いたいのだろうか。
……くそ、うまくいかない。
松本さんの視線を感じながら幕を扱う。もちろん上手くいくはずがなく、自分が何をしているのかもわからなくなる。
……1からゆっくり覚えることもできないのか。
再び心の中でため息をつく。中途採用で入った俺はこの会社で即戦力を期待されている。ここで躓いて時間を掛けることは許されていない。
……もちろん、そんなことはわかってる。しかし、だからといってどうしたらいいんだ?
都会は全てが狭く、何をするにしても針に糸を通すような作業が付き纏う。人への気遣い、通路の確保、作業の効率、全てに時間が伴い、少しずつ心が削ぎ落とされていく。
満員電車に乗っていないのに、圧縮された空気が俺の体を覆っていく。
……俺が今やらなければいけないことは、練習じゃない。人に頭を下げることだ。
プライドを捨て、彼の元へ近づいていく。昼間の現場では彼の幕張は確かに綺麗だった。
「松本さん、お願いがあります。俺に幕張りを教えてくれませんか」
◆◆◆
「まず最初に決めるポイントがあります。それは中心です」
松本さんはそういって、幕の張り方、種類、場所によって違うことを一から説明してくれる。 見える所は丁寧に、当たり前だが要領よくやらなければ仕事は回らない。
彼は流れるように3段テーブルを作り上げ、幕を覆っていった。
「ま、ざっとこんなものです」
あまりにも自然と出来上がり、声を上げることもできない。業務用の扇風機だけが時が動いていることを教えてくれる。
「ありがとうございます、やってみます」
松本さんの動きを思い出しながら動かしていく。最初に倣った方法では画鋲を3個使うが、彼は2個だけだった。それは一重に回収の時のスピードが遅くなるからだ。
ともかく軽量化する、それだけを頭にイメージして動いていく。
「ま、そういうことです。難しく考える必要はないです。ともかくスピードを追及していけば、もっと早くできるようになるでしょう」
松本さんの二倍の時間を掛けて仕上げると、彼は小さくそう呟いた。
「ありがとうございます」
……今日はこれくらいにしておこう。
机を片付けていると、2階から再び松本さんが降りてきた。
「終わったみたいですね。それじゃあ私は帰りますけど、いいですか?」
◆◆◆
……もしかして俺が終わるまで待っていてくれたのか?
自然と笑みが零れる。俺の何が彼の気持ちに火を点けたのかわからないが、感謝を伝える。
「ありがとうございます。幕張りはこれで大丈夫だと思います」
「構いません。ただ準備した道具で会場を作れないことも多いです。なので日頃から感覚を養っておく必要がありますから、その気持ちで臨んで下さい」
「……どうして、そこまで教えて下さるのですか?」
「正直にいえば、木原さんは不器用に見えるので放っておけません」
松本さんは業務用の扇風機を切りながらいった。
「私達は《《黒子》》にならなくはいけないんです。人の目につくようなことは基本、御法度です。音を立てず、時間を有効に使いながら、時に葬儀屋、時に花屋、その時に応じてやることを変えなければなりません」
「……そう、みたいですね」
この2週間の実労を振り返る。数えるくらいの現場にしかいっていないが、花を挿すだけではこの会社で生き残ることはできないと理解している。
「あなたは新人で目につきます。だから、居残って練習していたら余計目につくんですよ」
「すいません。できないことをそのままにしておくわけにはいかないので」
「……そうみたいですね。ですが本番で動けないのは困りますから、練習もほどほどに」
「……ありがとうございます」
頭を下げると、彼はそのままシャッターを閉めて出口に向かった。出口のドアに向かうと、彼が買ってくれたであろう、ブラック珈琲の缶が冷えた状態で置いてあった。
……また明日から、頑張ろう。
誰もいなくなった会社で喉を潤す。覚えることはたくさんあるが、一つずつクリアしていかなければ花挿しには辿り着けない。
……彼にも認めて貰わなければ。
松本さんと同じように動けるようにならなければ、ここでは使い物にならない。ともかく先輩達の動きを盗み、自分のものにしなければ目指した道には辿り着かない。
……強い意志を持とう。そのためにはこの珈琲のように黒く、何色にも染まらない強い心を持たなければ。
先ほどの彼の動きをイメージしながら珈琲を飲み干す。ひんやりと冷たかった缶がゆっくりと熱を帯びていく。
……今日のは、苦くて甘かったな。
松本さんの背中を後にして、俺は2つ目の缶をゴミ箱に投げ込み会社の扉を閉めることにした。
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