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2017年12月22日02:56

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「あほ(阿呆)」は「かしこ(賢)」に勝てるのか

(最初に誤解のないように断(ことわ)っておくけれども
 ここでの「あほ」とは、私のことです。
 私よりも「絶対的に頭の良い人」に対して
 私が何らかの意味あることを行い得るのか
 ということを考えているのです。)

私は
1959年5月12日に生まれ
私立「光の園幼稚園」を卒園し(1966年3月)
大阪市立「大和田東小学校」に入学し(1966年4月)
大阪市立「大和田小学校」を卒業し(1972年)
大阪市立「淀中学校」に入学・卒業し(1975年3月)
ここまでは地元の私立・公立の教育機関で学んだけれども
大阪府立「北野高等学校」に入学してから(1975年4月)
エリートとの人間関係を持つようになり
劣等感を感じるようになった。

大阪府立「北野高等学校」卒業(1978年)後は
天王寺区の夕陽ケ丘予備校を経て(1978年4月〜1979年3月)
公立の「大阪市立大学 商学部 商学科 」に入学し(1979年)
大阪市立大学商学部を「生産管理論専攻」で卒業し(1984年)
私立の「関西大学大学院 文学研究科 哲学専攻の修士課程」に
入学(1992年)修了して(1994年)
それからまた
国立の「京都大学教育学部」に入学(2002年)退学し(2009年3月)
「京都大学大学院 教育学研究科」に入学し(2009年4月)、
修士課程を修了し(2012年3月)
博士後期課程に進学し(2012年4月)
現在(2017年12月22日)は
「京都大学大学院 教育学研究科」の博士後期課程に在籍中だ。

最近は
京大文学部のシェリング演習(ドイツ語)
を聴講したり
久松 真一(1889〜1980年)が
1944年に設立した京都大学学道道場を継承する FAS 協会で
論究や相互参究と実究(坐禅)したり

禅文化研究所が主催する
「大蔵会(仏典研究会。サンスクリットと漢語)」や
「西谷研究会(西谷啓治の宗教哲学研究会)」に
参加したり

あるいは
「西田哲学研究会(東京=日大と京都=京大)」

「京都フィヒテ研究会(ドイツ語。同志社大学)」

関西ハイデガー研究会の補完分会である
「古代ギリシア哲学研究会(ギリシア語。京大人間・環境学研究科)」

フォト


上田 閑照 先生の門下生が主催する
「人生科教育研究会(キャンパスプラザ京都)」に
参加したりしている。

それに
京大の院生が主催する
「大乗起信論研究会(サンスクリットと漢語、京大宗教学院生研究室)」や
「スピノザ研究会(ラテン語、京大文学研究科宗教学専修院生研究室)」にも
参加している。

また
京大医学部の研究会(京都大学医学部 附属病院 精神科医局)である
「アポリア(木村 敏(1931年〜 )門下生による研究会。フランス語とドイツ語)」
などに
参加する中で

自分よりも
「確実に頭の良い人」

人間関係を持つようになった。
(京大文学部の院生は語学も堪能だし哲学の知識も深い。
 京大医学部の学生や京大医学部出身の医師は医学の知識はもとより
 知的能力がそもそも極めて高い。また臨床現場での経験も豊富。)

なので
「頭の良さ」
では
絶対的に敵(かな)わない。

世の中では
自分よりも
様々な面で優れた人々を見る。

妻は
生活能力という点で
私よりも優れている。

私は妻に
経済力で敵わない。
でも
生活能力で勝とうとも思わない。

なぜなら
次元の異なる能力だからだ。

頭の良さで敵(かな)わないならば
「頭の良さ」とは「異なる次元」で
相手のサポートが出来ないかを
考えれば良いだろう。

勝ち負けは
好きじゃない。

あるいは
負けは負けで
それ自体
悪い事では無い。

だって
何にでも勝ち負けは決まるし
負けた人を悪いとは
誰も思わない。

ただ
「扱われ方」が
変わるだけだ。

負けた人は
勝った人よりも
相手にされる事が少なくなる。

つまり
相手にされなくなる。

ならば
頭の良さで競うのではなく
頭の良さの「弱点」を「補強」出来る面を見出して
頭の良さ(つまりは理性能力)の限界を補う事で
頭の良さでは不可能な次元で
役に立てる事を考えれば良い。

「勝つ」ということは
相手を追いやる事だけではなく

「勝つ」ということが
相手を助ける事で
相手にとって自分の能力を
「自分の欠けた部分を補ってくれる存在だ」と
自然に思われる存在に
自分が成ろうとする事でも
ありたいものだ。

なので
「あほ」が「かしこ」に勝つ為には
「かしこ」が「不得意な分野」を
「あほ」が「サポート」出来れば
それで勝負は付く。

しかもその「勝負」は「引き分け」を目標とする勝負で
相手を「潰(つぶ)す」事を目的とする戦いではない。

「勝負」とは
「引き分け
(互いが互いにとって掛け替えのない存在同士である関係の構築を目的とする事)」
によって終る過程でありたい。

いずれかのみが生き残り
いずれかは一方の生き残りの為に
死滅する以外の道が残されていない戦いは
悪無限を招来するだけだ。

本当の目的は
「互いの欠点を補い合う関係の構築」
であって
「互いが他方を殲滅する事」
であるのは
極めて避けるべき関係だ。

フォト

ところで
「かしこ」を
「理性能力(もっと言えば悟性能力=論理的思考力、記憶力)」
だとした時に

「理性」が「扱えない領域」とは
何だろうか。
しかも
「あほ」が「扱える領域」は
何だろうか。

それは
「経験」の世界であり
「直観」の世界であり
「イメージ(構想力)」の世界であり
「意志(といっても自発的で不随意な意志)」の世界であり
「行動力」の世界だ。

私は
とても頭の良い人と接してきて
実感として
とても頭の良い人は
極めて多くの知識を持ち
極めて弁論に長けているのだけれども
どういうわけだか
極めて簡単な実際問題の解決能力が
「ごっぞりと抜け落ちている」
と思った。

普通なら
簡単に出来る筈の事が
とても頭の良い人は
(わざとしないのかもしれないけれども。
 つまり「そんなこと、私がしなくても誰かがやるだろう」と思うのか
 あるいは「そんなことは、私がすることではない」と思うのか
 わからないけど)
出来ない(または「しない」)。

なので
「あほ」は
「頭の良い人」が出来ない領域で
活躍すべきだろう。

「理性」に出来ない事を
「経験(直観やイメージや意志を含む)」がサポートする。

「あほ」と「かしこ」は
ほんとうは
人間の二面なのであって
誰にでも理性もあれば意志もある。

「あほ」の得意分野である「経験」の世界

「かしこ」の得意分野である「理性」の世界

両方で一つでなければならない。

どちらが欠けても
人間の世界は枯渇する。
理性だけでも無味乾燥だ(面白みが無い)し
経験だけでも傍若無人(無茶苦茶なだけ)だ。

なので
やっぱり世の中には
「とても頭の良い人」も必要だし
「あほ」も必要なのだ。

エリートを
人間の1%とすると
大多数の人(いわゆる「大衆」)は
「あほ」に分類されることになる。

民主主義は
多数決により決議されるので
「あほ」には有利な世界だけれども
ほんとうは
ごく少数の「頭の良い人々(つまりは理性)」の判断も
不可欠なのだ。

民主主義の欠陥は
理性の判断と
経験の行動が
アンバランスになってしまうことだ。

何故なら
多数決で決議するということは
一部のエリートの意見は
多数決の決議に反映されず
常に「少数派」として「不採択」の憂き目を見る運命
だからだ。
(だから
 ソクラテスも
 イエス
 ブルーノ
 殺されたのであるし
 彼等エリートを救う手立ても無かった。
 とはいえソクラテスやイエスやブルーノの時代は
 民主主義の時代では無かったので
 多数決ではない権力で
 支配者の意見と異なる者は
 それだけで殺されてしまう時代だったのだろう。)

いずれにせよ
理性の
対抗馬は
経験だ
ということ。

ところで
理性と経験が
二元論的に峻別されている場合
両者を媒介する第三項を立てても
無限後退(infiniter Regress)に陥る。
つまり
何処までも
「何故(Warum)?」と
「何故ならば〜だから」が
続くのみで
何時(いつ)まで経(た)っても結論に至らない。
(だからこそ
 ベギン会のナザレのベアトリス
 エックハルト
 アンゲルス・ジレージウス
 ohne Warum(無心)と言って
 理由を問う事の無意味を示したのだろう。)

二元論を克服する為には
二元論を前提とする議論ではない議論の方法を
編み出さなければならない。

それは
充足理由律(Satz vom zureichenden Grund)を破ることであり
しかも
排中律(Satz vom ausgeschlossenen Dritten)

「第三者としての媒介項は排除あれるものの
 肯定命題と否定命題が weder noch であると同時に sowohl als」
であることだ。

このような次元を
何と名付ければ良いのだろうか。

フォト

シェリングは
Doppelwesen(二重存在体)と言い
ホワイトヘッドは
dipolarity(双極性)と言う。

「Doppelwesen(二重存在体)」も
「dipolarity(双極性)」も

「二元論(Dualismus)」とは
明確に区別されて
使われている。

「二重存在体」や「双極性」においては
二重や双極が
「対立関係」ではなく
顕潜関係」にある。

ここで「顕潜関係」とは何か
というと
「一方が顕在している時には他方は潜在し
 他方が潜在している時には一方は潜在する関係」
だ。

たとえば
「意識」が「覚醒」している時には
「無意識」は「眠り」
「意識」が「眠っている」時には
「無意識」が「目覚める」ように。
(「意識」が「働いている」時に「消費」している物質は
 「意識」が「眠っている」時に「補給」される。
 それ故
 「意識活動」にとって不可欠の物質は
 「意識」が「眠っている」時に
 「活動している」ところの「無意識」が生産している
 ように。)

このような関係は
生命現象によく見られる。

「熱」は「健康時」には出ないが
「発病」時には「発熱」する。

この「熱」を発生させる「能力」は
健康時には「眠っている(潜勢である)」が
危機的状況に陥ると自発的に顕勢化する。

この
「平時」には「潜勢」している「能力」と
「有事」には「顕勢」して来る「能力」とは
同じ一人の人間の身体の「生命活動維持能力」として「一元」である。

「一元」でありながら
「平熱を保つ能力」と
「病気を癒す能力」は
「顕潜関係」にある
と言える。

「平時に必要な能力」と
「有事に必要な能力」は
同じ一人の人間の身体に
最初から(ア・プリオリに)インプットされている。

つまり身体は
「平熱を保つ能力」と
「病気を癒す能力」の
「二重存在体」であり「双極存在体」である。

こういう
「顕勢と潜勢の二重存在体」を
何と表現すれば良いだろうか。

空海には
『弁顕密二教論』(816年頃)という書物がある。
この中の「顕密」は「顕教」と「密教」のことだが
「顕潜」を「顕密」としてしまうと
「密教」のイメージが強過ぎて
「顕勢と潜勢の交替関係」という意味が正確に伝わりにくい。

だったらいっそ
「顕潜交替関係」と言えばいいだろう。

または
「顕・潜交替関係」
と表現すればいいだろう。

けれども
「平時の健康維持」と
「有事の病状回復」との
二重存在関係を言い表す言葉は
既に在るような気がする。

いずれにせよ
生命現象では
「健康時の活動」と
「緊急時の活動」が
「異なっていながら同じ一人の個体の内在原因によって営まれている」
ことが常識である。

この常識が
論理的世界では「非常識」なだけである。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

ところで
「理性」の限界は
「生命」を創造出来ないことだ。

「生命」を創造する能力は
「自然」にある。
「人間」には無い(少なくとも今のところ)。

理性の原理と
生命の原理は
異なっている。

理性の原理は平面的で一次元単独進行的だけれども
生命の原理は立体的で多次元同時進行的だ。

つまり
理性は一度に一つのことを単純に処理し得るだけだけれども
生命は一度に多くのことを複雑に処理し得る。

なので
理性は生命に
永遠に追いつけない。

永遠に差を広げられるのみだ。

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最終更新
平成29(2017)年12月22日 午前8時1分
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