公開直前、本作は以前にあった“聖剣無双”をタイトルから削除した。
だが、そもそもサブタイの一部削除など問題ではない。*1
本作は映画としての問題が多々ある。
「アーサー王物語」といえば、岩へと刺さる剣を引き抜き、
若き王が、大魔術師マーリンの助力でやがてブリテンの偉大な王へ成長する物語だ。
映画は、物語を脚色し、円卓の騎士の結成以前の話を描く。
アーサー(チャーリー・ハナム)の出自はなかなかユニークだ。
父の弟ヴォーティガン(ジュード・ロウ)の謀反で遺児となって、
スラムの売春宿でギャングのように成長していく。監督独自の世界が匂い良い。
アーサーが相手を出し抜く「こずるさ」も物語のスパイスだ。
だが、運命に物語が王道に転化したあとユニークさはなりをひそめる。*2
アーサーは自身の責任と聖剣の能力に、
エクスカリバーをなかなか受け入れてくれない。
ズルズルと迷う。
物語においてアーサーが聖剣を受け入れる場面は2つある。
最初は仲間の危機に。つづいて伝説のとおり聖剣を湖に投げ捨て、
姿を現す乙女の力で未来を幻視する場面だ。
正直、この1番と2番は反対にするべきであった。
アーサーは周囲は仲間たち(人間)より、
運命の啓示で王に成る道を選ぶと解釈されてしまう。*3
一方、敵役のヴォーティガンは権力喪失の運命と、運命を覆す力の代償に、
愛する者を咽び泣き邪悪にささげる。
その二律背反を抱く姿がアーサーよりよっぽど人間らしく映るのだ。
※1 とはいえ“聖剣無双”といえばそうでもない。アーサーはたしかに聖剣の能力ですさまじい戦闘能力を得る。だが、そもそも聖剣を使用する場面が最後ぐらいしかないし、異常に高速でカットを割る戦闘描写は、ただただ速いだけだ。
※2 王道の転化で物語が凡百になるのはガイ・リッチーの弱味と弱点かもしれない。どちらかというと監督はひねった作品を撮影してきた。切れ者のアーサーはたしかに新味があるが、王道になった瞬間にうしなわれ、いままでにあったステロタイプのア―サーと変化がなくなってしまう。そうなったら王道と正道が得意な監督と勝負できない。
※3 より多くの人々の“共感”を獲得するなら“ヒト”の感情を重視すべきだ。
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