幼いころから、毎年正月2日に一緒に銭湯に行くたび繰り返し聞かされた話。
天国に行ってしまった今は懐かしく思い出すのみだが、彼の自慢だった。
当時学徒動員で群馬県太田市の中島飛行機で働いていたのだが、一式戦「隼」と重爆撃機「呑龍」
のラインにある日この四式戦「疾風」が加わったそうだ。
それまで「隼」が一番美しい戦闘機だと思っていた父が一目で目を奪われた機体だったそうな。
ラインは最優先で作業が進められたが、部品が届かず生産は遅々として進まなかったと悔しそう
に語った。
ようやく機体の生産が軌道に乗ったころ、今度は「誉」エンジンが届かず、首のない期待が並んだ
とのこと。工場への爆撃が本格化し、しばしば作業が中断することが増える中、テストもそこそこに
戦地に飛び立つ機体を見送りながら胸を熱くしていたそうな。
B29が来襲するようになってからは工場のほとんどが吹っ飛ばされても、部品を集めては生産を
続けようとしたが、もうまともな機体を作る力は残っていなかったと悔しがった。
最後は残った機体の部品やエンジンをかき集めてはベニヤ板で車輪のない飛行機を作らされた。
それが特攻機「剣」であったことを知ったのは戦後何年も経ってからであった。
「毎日、日本は多くの米空母を撃沈しているはずなのに、どうして四十六時中艦載機が飛来して
爆弾を落としていくのだろう?」と疑義を持ち始めたのもこのころ。工場は完全に破壊しつくされ、
工場へは行かず、爆撃でできた道路の穴を埋める作業をし始めて1週間で突然戦争は終わってし
まったんだそうだ。
器用だった父は戦後、木っ端を削っては「隼」や「疾風」を作った。なかなかの出来栄えで、高く売
れたという。
今、改めて見ても実に美しい機体だと僕も思う。大切に保管して後世に伝えて欲しい。
悲劇の戦闘機「疾風」詳細調査
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=2&from=diary&id=4529449
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