mixiユーザー(id:2223977)

2017年04月06日11:38

390 view

語学と悟道と教育

語学において

そもそも
「対等」なコミュニケイション
というものは

各人が
自らの母国語ないし郷里語(方言)
を話し

そして各人は
相手が話す
自分が使っている言語とは異なる言語

互(たが)いに理解し合う
という
同位関係(対等関係=Koordination)
に依って
初めて成立する。

なので
現在のように
どちらかの言葉だけで
コミュニケイションする
のは
不公平な
従位関係(不平等関係=支配・服従関係=Subordination)
が前提されている。

たとえば
日本語と英語の場合

日本語で互いに会話する場合には
日本語が英語よりも優位であるという従位関係を
前提としているし

英語で互いに会話する場合には
英語が日本語よりも優位であるという従位関係が
前提とされている。

そこには
日本語または英語の
優劣関係が前提されている。

そうではなくて
日本語を母国語とする者は日本語を話し
英語を母国語とする者は英語を話し
互いに相手の言語を理解しようとして
(自らは母国語を話しながら)
相手の話している内容を理解しようと互いに努める行為

対等なコミュニケイションの
「前提条件」
なのだ。

こんな簡単な「前提」が
異なる言語を話す人間の間で
守られることは稀(まれ)である
のは
コミュニケイションについて「仮象」を持っている
からだ。

コミュニケイションの正しい在り方を
理解して
互いに相手の意志を
「そのまま」理解しようと
努め合うならば
互いは自分の意志を
(不慣れな異質な言語を話す障害を感じずに)
伝える事が出来る。

もちろんその場合
互いの
異国語に対する理解能力が問われることになる
わけだけれども
それは現在の語学教育と同じで
何等変わりはない。

現在のように
我々が日本語で話しても
外国語を母国語とする人が理解しようとせず
我々がその外国語を話す迄
会話が成立しない
(コミュニケイションしようとはしない。
 つまり日本語を理解しないまま
 母国語だけでコミュニケイションしようとする)
のは
対等なコミュニケイションとは
言えない。

我々が外国語を理解しようとする努力を
と同じだけ
外国語を話す者も
日本語を理解しようとする努力が
求められるのが
対等なコミュニケイションの
「前提」条件であり
定言命法であり
「ルール」であり
「作法」なのだ。

そういう「作法」が
守られていないし
理不尽な「従位関係」を前提とした
現代の語学教育に
誰も疑問に感じないのは
そういった「従位関係」に
従順であることに慣らされてしまっている
「仮象」から
抜け出せないでいるからだ。

そういった「仮象」を解くには
悟道が必要で
この悟道は
我々が受けてきた教育とは
別種の行為である。

そして悟道がこれまで
しっかりと確立されて来なかった事が
未来の社会を形成する人材の育成が
うまくゆかないことの
最大の原因に成っている。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

悟道とは
悟り(解脱)への道であり
仏教の修行道のことであるが

悟道は
言葉以前の世界(生理的世界)とのコミュニケイションの
修行だ。

この場合
二肢言語
(能動態と受動態でのみ構成される現代の言語。
 つまり「(支配)する」のか「(支配)される」のか
 という二者択一(二元論)の判断しか出来ない言語体系。)

コミュニケイションの手段として
役に立たない。

生理が反応する言語は
中動態と
中動態とセットである能動態
(この能動態は、
 現代用語の能動態とは異なり
 中動態が描写する非人称の自己偶発行為を
 主体とする自動詞。
 それに対して現代の能動態は
 自らの意志を主体として
 他者の意志を自らの意志に従わせようとする
 (他者の意志を、自らの意志の目的格にとる)
 他動詞を本質とする言語体系。)
のみである。

例えば
自律性療法では
「Ich bin ganz ruhig.(私は完全に安らいでいる)
 I am at peace.(気分が落ち着いている)」
という
背景公式(常に通底の気分として持ち続ける)を前提としながら
生理へ直接働きかける言語公式を用いるが
その
「生理へ直接働きかける言語」は
二肢言語ではなく
自発(自己偶発)の自動詞である。

たとえば
「手足(両腕両脚)が重たい(両腕両脚の筋緊張の弛緩)」
とか
「手足(両腕両脚)が温かい(両腕両脚の血行の促進)」
とかの言語を用いるが
その場合には
二肢言語は役に立たない。
(二肢言語の場合だと
 「手足よ、重たくなりなさい」とか
 「手足よ、温かくなりなさい」とかの命令口調で
 人間の意志が生理を支配しようとして
 人間の意志に生理を従わせようとする口調になるが
 その場合、生理は防衛反応を示すのみで
 人間の意志に従って反応することを拒み続ける為に
 心理(人間の意志)と生理(身体の意志)とのコミュニケイションは
 不成立に終る。)

生理は
主従関係を強要する二肢言語には
拒絶(防衛)反応を示して
反応しないからだ。

生理が反応する言語は
中動態の文法体系に基づく
古代のインドの言語(サンスクリット=梵語)

古代のギリシアの言語
だけなのだ。

だから真言宗では
サンスクリットそのままが
お経の文言に用いられたのだが

けれども
サンスクリットが理解出来ない場合には
日本語で自分自身の生理の
交感神経(興奮系=栄養消費系)と
副交感神経(鎮静系=栄養補給系)の
動的均衡を整える必要がある。

その場合
日本語には中動態は無いけれど
「なる(為る・成る・生る)」を中心とする言語によって
生理(交感神経と副交感神経)へ
働きかける事が可能になる。

そうして
我々が生理とコミュニケイションがとれるようになれば
我々の判断力も
ずっと広く自然な判断と成る。

これがカントの目指した
「ア・プリオリな総合判断」
である。

カント以前は
ア・プリオリな分析判断(合理論)

ア・ポステリオリな総合判断(経験論)
以外の
判断の仕方は
存在しなかった。

けれども
それでは
「この世界は無限か有限か」
「この世界には自由(偶然性)は存在するか
 それとも
 この世界は必然性に支配されているか」
「魂は不死であるか否か」
「神は存在するのかしないのか」
という
「問い」に
答える事が出来ないアンチノミー(二律背反)から
抜け出す事が出来ない。

カントは
アンチノミーを解決する為には
「ア・プリオリな総合判断」が可能な条件を
見出す事が必要であると考えて

超越論哲学を創始した。

カントの場合は
根源的獲得(acquisitio originaria)
によって
それまでの
生得説
(合理論=ライプニッツ等
 =人間の理性には
  先天的(ア・プリオリ)に論理的な思考法則が内在している
 とする説。)

獲得説
(経験論=ロック等
 =人間は生まれた時には
 タブラ・ラサ tabula rasa=白紙状態であり
 総(すべ)ての能力は後天的に獲得するものである
 とする説。)

越えた判断を用いて

超越論哲学の世界である
「現象(Erscheinung)」の世界(悟性による構成的(institutiv)世界)

「仮象(Schein)」の世界(理性による統制的(regulativ)世界)

峻別した。

けれどもカントの超越論哲学は
未だ悟性偏重であり
悟性と感性との「同位関係」は
守られていない。

ア・プリオリな総合判断が可能に成る条件は
二肢言語を越えて
中動態や
「なる(為る・成る・生る)」の自動詞で
生理の動的均衡を整えた判断を
養成する方法論が
確立されていなければならない。

その為には
カントの哲学が我々に齎(もたら)した段階を
踏まえながらも
カントの超越論哲学をさらに前進させた
シェリングの積極哲学や
西田の場所論や
ホワイトヘッドの歴程哲学を
踏まえ

しかも
言語論的に
中動態に着目しつつ
さらには
宗教の原理と方法を
医学に応用した
心身医学における自律性療法の進展を
踏まえて

今一度
哲学の脱分化再編成(Metaplasie)

試みる必要がある。

これを私は
しかし誰も付いてこないので
たった一人で
再編成してゆこうと思う。

そして書物に残して
そういった判断に基づく未来社会を形成できる人材を確保し得る
教育と悟道の体系を引き継いでくれる人が
現われる事を
未来に託そうと思う。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

とはいえ
語学と悟道を
照らし合わせて
考えた場合

悟道に於いて
心理が
生理の理解可能な言語体系としての中動態の文法体系を
用いることで
初めて
心理と生理のコミュニケイションが成立した
ように
(つまり
 心理は
 生理に
 心理の二肢言語体系を理解することを「強要」せずに
 心理が
 生理が理解可能な中動態や自発の自動詞を用いて「歩み寄る」ことで
 初めてコミュニケイションが
 成立した
 ように)

異質な言語体系の
コミュニケイションを
可能化するのは
互いの言語の話者の
「無化(無相化)」

「前提条件」
と成っている。

つまり
双方が自らの言語体系に固執し
自分の言語とは異質な相手の言語を理解する事を拒み続ける限り
コミュニケイションは成立し得ない。

両者が
互いの言語体系を理解している場合には
互いが互いの母国語を話すコミュニケイションの在り方は
可能であるが

どちらか片方が
相手の言語を理解していない場合
(相手の言語を理解しようとしない場合)
理解している側が
(母国語で会話したい気持ちを無化することで)
相手の言語体系に「歩み寄って」
相手が理解出来る言語で話しかけることで
コミュニケイション(会話)が成立することになる。
(これに反して
 両方が互いに相手の言語体系を理解出来ない場合には
 つまり
 互いが互いの母国語から一歩でも外に出ることを拒み続ける場合には
 そもそもコミュニケイションは成立しないことになる。)

悟道の場合
生理に
心理の二肢言語体系を理解させることは
不可能であるので
中動態の言語体系等を用いて
生理とのコミュニケイションを
図っている。

同じ事が
教育に於いても
言えるのではないか。

教師は
生徒に対して
経験値が高い事が前提されている
ので
経験値の低い生徒に対して
(悟道の場合に
 心理が生理へ歩み寄ったように)
歩み寄る必要があるだろう。

また
語学に於いては
相手の言語体系に歩み寄る事で
こちらの言語体系を理解出来ない者との
コミュニケイションを可能化させる
ということが(悟道に於けるのと同じように)
言えるだろう。

いずれにしても
「(支配)する」のか
「(支配)される」のか
二者択一の二元論では

語学も
悟道も
教育も
成立しない。

語学も悟道も教育も
ア・プリオリな総合判断を
前提として
初めて「理想」のコミュニケイションの在り方が
現出するだろう。

========================================
最終更新
平成29(2017)年4月6日 午前11時56分
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2017年04月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30      

最近の日記

もっと見る