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2016年11月13日22:13

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一期一会の「ジャム・セッション?」

久々に「RAMANA ARUL」に赴きオーナーさんを訪問、来年のアシュラムカレンダーを頂いてきた(今年の場合は発売時期が例年よりも遅くなり、私の滞在期間中には間に合わなかったのである)。


まだ全体を子細に検分していないのだが、壁掛け型はこれまでとは違ってカレンダー表記部分を分割せず、写真全体の中に数字&文字を配置する・・・という初めて(だと思う)のデザインなので、写真のインパクトが大きく迫ってきてかなり秀逸な出来具合ではないか?と思われるざんすねえ。




「RAMANA ARUL」を辞して高田馬場から東西線で中野へ、ブロードウェイ4階の「まんだらけ大予言」であれこれ古本を検分するが特に掘り出し物はなし・・こんなことなら中野の前に新宿のディスク・ユニオンでの「美代ちゃんグッズ」探索をするべきであった(笑)


蕎麦を食して腹ごしらえをしていざTAICHI-KIKAKUの身体詩ワークショップへ・・・・↓


http://taichi-kikaku.com/TAICHI-KIKAKU/wakushoppu.html



ところが諸般の事情により、なんと本日の参加者は私だけ!!

TAICHI-KIKAKUの側にしても田淵さんもヨシダさんも来られず、つまりオーハシさんとマンツーマンでのワークショップ展開となった。


なんだかエキササイズというより「さしの勝負?」とでもいう感じの、濃密かつある種の「心地よい緊迫感」を伴うちょっとスリリングな、予定調和ではない即興的な展開で、お互いの背景や蓄積された存立基盤という精神的地層群が発火しながら交錯・交流するかのような面白さに満ちていたざんすねえ!!

・・・こういう機会というのは今後そうそうあるものではなく、ワークショップというよりもむしろ一期一会の「ジャム・セッション」と評するにふさわしい性質のひとときだったように感じた次第。


同時にこの感覚は現在私が取り組んでいるところのマハナンダ・ホールネス2016における「受肉化・ヴィジュアライゼーション」へのアプローチに関しても、そこへ向かうための「身体のメンテナンス」という点でヒントを示唆しているのかも?・・という印象も受けたざんす。



実は私は「挫折した演劇中年?」の一人として、この「オーハシ・ヨースケ」という存在に大いなる憧れを抱いていて、「オーハシ・ヨースケ」のように成りたかった・・」というのが、言わば私にとっての「叶えられなかった『青年時代のヴィジョン』なのだが、


しかし、もし私もまた(もう一人の)「オーハシ・ヨースケ」に成っていたとしたら、果たしてそこに意義があるだろうか?

・・・と考えると、どうもそうではないような気がするのですなあ。


この現象世界での「人格的な生の展開」とでもいうような流れにあって、「オーハシ・ヨースケ」としての運命が複数ある?・・ことには、何らの必要性も必然性も無いのではあるまいか?


そもそも「同じ運命」などというものがありようはずがあるまい!・・私は「オーハシ・ヨースケ」ではなく、「シリウス・マハナンダ」という
一個の運命を生きている・・というより「生かされ在る」わけであり、つまりそのことがそのまま「御神意の顕れ」なのである。



そして日々の「引きこもり的な『個たる存在』としての私」の「頭の中だけで機能している」マインドが描写する「私自身のライフ・ストーリー」なるものが、

今回「RAMANA ARUL」のオーナーさんやオーハシさんと「対話をする」という展開の中で、全く違うレベルのものに置換・変容され、そこにある種のリアリティが付与されていく・・・というような感触があった。


例えば私のあれこれの「(将来についての)漠たる不安・悲観的展望」は、結局は杞憂に過ぎないのではないか?・・・という心証が強くなってきたりもするのだねえ(笑)


まあこの感触は以前から薄々と感じていることでもあるのだが、「個としての思考あるいはセルフイメージ」ではなく、「他者との対話・交流」の中で生成されて立ち顕れていくリアリティの方が、現象世界での「状況」を形成・確立していく・・のかもしれないのですな。



しかしそのような現象が生起するのは、私としては「そこを最初から指向
しているわけではない」が故の、むしろ反転跳躍的現象なのではないか?・・と思いたくなるのざんすよ。


というのも昨今の私は、意図的に「他者との交流を積極的に展開しよう!」というようなアクティヴな方向とはまるで真逆の、「個の存在の内側」へと沈潜するアプローチというベクトル・・・

それは「彼方よりもたらされるもの」を感受し受肉化・可視化しようというパッシブな営為・・を基本的に保持しながら日々の日常生活を送ることに取り組んでいるわけなのである。


その営為のベクトルが何かの機縁(これもまた神仏の「お導き」と言えるだろう)にぶつかって「反転跳躍」する時に、例えば今回のようなジャム・セッションとでもいうようなコミュニケーションのフェイズが現出し、そこに展開される「私」なるものにリアリティが付与されるのではないだろうか?


まさしくそれは、「より深き奥底から星の高みへ」というアナロジーを象徴するような出来事であり、「シリウス・マハナンダ」における「実存的メインストリーム」である「『道化』なる地平」というアーキタイプの発現状態の一環なのではないか?・・・と思う次第。










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