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2016年08月17日20:29

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あの世で自慢したいこと

16日は私の大恩人である故・柳田侃先生(日本ラマナ協会会長・甲南大学名誉教授)の13回忌のご命日であった。享年78歳(の誕生日の4日前だったが)・膵臓ガンによる逝去であり、もしご存命だったならば今年卒寿だったのですなあ・・。


私がこの日にアルナーチャラに滞在している場合は、先生の「追悼プラダクシナ」を実施するのが慣例である・・・今年は既出のように思いも寄らぬ知人たちの訃報が相次ぎ、「追悼プラダクシナ」を歩くのが多すぎる!!感があるざんす。


今回の滞在では、私より以前から先生と交流のあったオールド・デヴォーティお二人との久々の再会もあったので、これまで知らずにいたギリプラダクシナにおける柳田先生の言動のいくつかを聞くことが出来た。


それによれば、先生がギリプラダクシナを始められた当初はなかなか大変だった模様である。

おそらくそれは80年代末あるいは90年代初頭のことと思われるのだが、昭和2年(1926年)生まれの先生は当時既に還暦を迎えられていたことになる。

若い頃からあまり頑健な体質でもない上にとりたてて肉体を鍛錬する運動などをしてこなかった先生にとっては、これはかなりのタパス(苦行)でもあったようだ。

(学者時代の中年期のお写真を見たことがあるが、いかにも「青白きインテリ」という感じであった・・笑)


現代であっても13キロ半の道のりを「裸足で歩く」のは、外国人にとっては決して楽なものでもないが、当時の路面状況は今よりも悪路だったわけでもあり、60過ぎのひ弱なインテリが「ほぼ毎日」歩く・・というのは尋常なことではない。


そのころ先生の足の裏は血豆だらけになってしまい、それでも行こうとするので、アシュラム幹部なども「誰か先生を行かせないように進言した方が良いのでは?」と大いに心配された・・・そうである。


先生ご自身の当時の記録としても、

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ギリプラダクシナは今冬すでに1度経験していたのですが、何人かで一緒に回るのと一人で回るのとでは、また一回限りのそれと毎日続けるのとでは、随分激しさの度合いがちがうことが分かりました。今回は一人で、毎日続けてみました。

(略)

わたしにとっては、それが世界観が変わるほどの体験なのです。マメとキズで腫れ上がった足を引きづりながらアシュラムに帰着するのは、大抵9時頃でした。

・・・柳田文献 91年10月15日発行号より抜粋



私は昨年に引き続き今年の夏21日間聖なる山アルナーチャラを巡回するギリプラダクシナに取り組み、あらためてアルナーチャラの巨大な力に目を開かれました。連日のギリプラダクシナですっかり浄化されて帰国したわたしは、その後1ヶ月以上経ったいまも、わたしを引き付けてやまないこの聖なる山の強い牽引力を、ひしひしと感じ続けています。

近年開発によって荒らされたプラダクシナ・パスの約13キロの道を、裸足で歩き通すのは、わたしたち外来者にとって、はじめは大変な苦行です。しかし、明日はもう休もうと心に決め、くたくたに疲れてアシュラムに帰着したわたしを、アルナーチャラは翌朝再びプラダクシナに駆り立てます。それはアルナーチャラが肉体の苦痛というエゴを取り除く不思議な力をもっているからではないでしょうか?


・・・柳田文献 92年10月15日発行号より抜粋


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という具合である。


これほどまでに先生がギリプラダクシナに取り組まれた理由はあれこれあるのだが、一つには「贖罪」という意識も当初には大いに影響していたのではないだろうか?・・とも思われる。


先生は「国際経済学」専攻の経済学博士であり甲南大学名誉教授でもあったわけだが、と同時に「マルキスト」でもあったわけで、本来は宗教とか霊性の道などには全く無縁の人生を歩んでいた人である。

そんな先生が50代半ばにして何故インドにハマり、ラマナ=アルナーチャラに帰依してしまったのか?


実は先生はご長男に先立たれている・・・しかも「18歳での自殺」という悲劇であり、父親にとってはいたたまれない衝撃と慚愧の念に苛まれたことであろうし、このような「生死の理」については「マルキシズムでは何らの解決も得心ももたらさない」ことを痛感されたのだそうで、この事件が先生に宗教や霊性への道へと目を向かせる契機となった・・のは確実である。

(この件は公式な記述としては残されていないが、この話は私自身が直接先生から聞かされたし関係者にはよく知られていて、全くの秘密というわけではない)



であればこそ、ギリプラダクシナのもたらす「苦行」的な要素を自ら進んで受容されたのは、意識のどこかには「先立たれたご長男さんへの追悼と贖罪」の気持ちがあったことだろう・・・というのはあくまで私個人の推察に過ぎない。

しかしながら少なくとも中期以降からは、先生は(足腰もすっかり「鍛錬され」ていて)ギリプラダクシナを「楽しんでいた?」ことも間違いあるまい。


私が先生のご案内で初めてのギリプラダクシナを歩いたとき(97年2月)には、先生はとても70歳の老人とは思えない「風のように颯爽と」速いスピードで歩かれていて、36歳の私が疲労困憊して「ひいはあ状態」でよたよた歩くのを「にこにこ笑いながら」からかわれた・・のであった。


この「風のように颯爽と」速いスピードでの先生の歩きに関しては、やはり先生にギリプラダクシナを仕込まれた?I氏も同じ感想を抱かれていて、「こんなしんどいことのどこが面白いのだろう?」なんて感じたのだそうで、今ではギリプラダクシナ大好きなI氏も当初は私と同様だったのか・・・と妙に安心してしまった(笑)。


I氏も語っていたが、やはりギリプラダクシナというのは「ある程度の数」をこなしてから、その本来の「面白さ」が実感としてわかってくる・・・ということのようでもある。


そのI氏の思い出話として傑作だったのは、彼が先生と一緒に歩いていたときに、

「Iさん、もし今途中で私が倒れて死んでしまっても、気にせずにそのままにして歩いて下さいね・・ギリプラダクシナの途上で死ぬなら本望ですから。」

・・・と言われたのだそうな。


実際問題として、一緒に歩いていた70の爺さんが急に倒れて死んじまったら、「気にせずにそのまま歩く」なんて出来るわけもないが(笑)、いやいやどうしてラマナ=アルナーチャラのバクタとしての潔い心意気ではないか!!


かって私は先生に、

「もし先生の足腰にガタが来て歩けなくなったら、私が車いすを押してギリプラダクシナさせますよ」

などと冗談を言ったものだが、今から思えば既に先生は「自力でギリプラダクシナが出来なくなったら死ぬときだ」・・のような気持ちでいらしたのかもしれない。



先生の逝去の2ヶ月ほど前に、私は入院されていた京都の病院にお見舞いに行った。

最後の翻訳作品となった「不滅の意識」(ナチュラル・スピリット刊)の出版を間近に控えて表面上はお元気であり、相変わらず談論活発で冗談が飛び交うような状況であったのだが、

「ちょっと失礼してお手洗いに行ってきます」とベッドから立ち上がってトイレに向かう後ろ姿を見たとき、その瞬間「ああ、これはもうダメだ」という直感が去来した。

・・・そこにはあの「風のように颯爽とした」歩き姿はもう微塵もなく、よろよろ・よたよたな足の運びの「ただの爺さん」となっていたからである。



かくして12年が経過して、先生のご命日に通算382回目のギリプラダクシナを歩きながら、ふと面白そうなアイディアが頭に浮かんだ・・・。

来年の8月16日の柳田先生のご命日当日のギリプラダクシナが、ちょうど通算400回になる!・・ように次回の「第27次インド計画」旅程を検討するというのはどうだろうか?


今次滞在中のギリプラダクシナが予定通り391回で終了と仮定するならば、次回滞在の9回目が通算400回になる。

それを8月16日と設定した場合、逆算すると7月23日が初回なので、20日にアシュラム到着という感じかな?・・というのは、次回も夏場に来ようと考えるからには十分実現の可能性が高いざんすからね。


先生は生涯に700回以上歩かれた・・と言われたのだが、さあて私は最終的にどこまで数字を延ばせる事であろうか?

できれば先生の回数を超えるまで歩き続け、あの世に行ったときに先生の前で「どうです!先生?」と自慢してみたい・・・のざんすよ、わははははは・・・・・!!!!!

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