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2016年08月09日20:59

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それは巡礼なのだ!

今回の滞在も本日で1ヶ月が経過した。

我が「出来の悪い」5番弟子の滞在許可は1ヶ月であり、9日晩にアシュラムを出て帰国の途につくことになっている。

全く相変わらずの素っ頓狂かつ頓珍漢な奴であるが、それでも最後の1週間となった辺りから変化が生じてきて、この地での滞在に相応しい「落ち着き」がそこそこは見られるようになってきた・・ようである。


まあ、そこら辺の話はまた後日あらためて・・ということにして、「久々の再会シリーズ」第2段である。


昨日7日未明に日本から到着したI氏は、私よりも早い時期にアルナーチャラへ来始めた「オールド・デヴォーティ」でもあり、もちろん故・柳田先生とも深い親交があった。


彼とは多分7年以上ぶりの再会なのだが、アルナーチャラへは3年ぶりの訪問・滞在とのことで、その間に変化した部分を説明した以外は何らの「ご案内」も世話を焼く必要もない相手なので気が楽である(笑)

そして私より古いデヴォーティである上に故・柳田先生から薫陶を受けてギリプラダクシナを仕込まれた?人物だけに、ギリプラダクシナの話になると俄然盛り上がるわけざんすね。


歩く時間帯とか参拝順路などはそれぞれ異なるのだが(彼は私と違ってかって柳田先生がされていた「ギリプラダクシナの作法」をそのまま継承している)、共通しているのは「裸足で歩く」ということである。

これは我々2人だけでなく、ギリプラダクシナ好きなオールド・デヴォーティにとっては「もちろん・当然・当たり前」の共通事項と言えるであろう。


彼が言うには、

「やはりギリプラダクシナは裸足で歩かないと、単なるウォーキングと変わらないし・・・」

そう、そこらへんの感覚がリアルに感じれるか否か?・・・で、ギリプラダクシナへの取り組み方に大きな違いが生じてくるとも言えるだろう。



私自身は7日夜のギリプラダクシナが通算で379回となり、今回の滞在では390回到達を視野に入れていて、来年には400回という区切りを目論んでいる?・・わけだが、

一番最初に柳田先生に案内されて歩いた時に「裸足でなきゃダメです!」と言われたので、お陰様でこれまでの全回数に渡り「裸足率」100%、及び「リタイア率」0%である。

(柳田先生の場合は晩年には体調不良のためリタイアしたこともある・・ので、この点だけは「師を上まわる」成績であり、密かな自慢でもある・・笑)


まあこの「リタイア」率0%というのは、あるいは次回にも不測の事態(例えば交通事故で大怪我を負うとか・・)によりあっけなく頓挫するかもしれない・・わけで、単に幸運の蓄積でしかないが、

「裸足率」の方は出発時点で履き物を履かず(&持たず)に歩き始めさえすれば、自動的かつ永久に?100%なわけざんすからね(笑)



そして私もやはり彼の意見に賛同するわけである。

13キロ半という距離を「裸足で歩く」となると、普通の意味での「ウォーキング」とは質的には大きな違いが生じてくるのだ。


まあ有り体に言えば、「インド最大級の聖地の大地のエネルギー」が直に足裏から入って身体を通って頭頂から抜ける・・かのような、ある種の「通天の気」とでもいうような、あたかも「天・地・人」が一体化するような感覚・・・が、裸足で歩くのと履き物を履いて歩くのではまるでリアリティのグラデーションが違ってくるのである。



それから「身構え・気構え」の違いもある。

厳しい言い方をすれば、それは「巡礼」と言う営為をどのように捉えているか?・・・の反映でもある。


ギリプラダクシナは単なる「ウォーキング」エキササイズでもなければ、長距離ハイキングでもない。

それはアルナーチャラに対しての「巡礼」であり、同時に「(霊的な)行法」でもある。


・・・・そこに意識の重点を置くとき、「裸足」で歩くその効用ではなく「営為自体」に様々な意義が生じてくるのである。



しかし実感として以前に比べると、説明を受けて「じゃあ裸足で歩いてみます!!」という潔い決意表明をして実際に挑戦する・・・人が減ってきたような気がする。

柳田先生がご案内をされていた時分には、誘いを受けた大概の人が素直に「裸足で歩こう!」としていた・・ような印象が強いのだが、これは私の単なる美化された過去の追憶に過ぎないのであろうか?



確かに昔の方が治安状況上のあれこれの制約もなく、環境も遙かに静かであって、

朝方や夜などに「誰もいない並木道を月明かりを頼りに、アルナーチャラの沈黙のシルエットを肌に感じながら、独りひたひた・粛々と歩く」

・・・事には格別の感慨があった。


現在ではそれはなかなか困難になりつつあるが(とりわけ環境の違いは著しい・・)、しかし案外足裏が直接対峙する「路面状況」それ自体は、そんなに大げさな変化はしていない・・・と実感されるだけに、

「裸足で歩く」ことへの過剰な警戒感とでもいうものは、やはり昨今の日本の日常生活でのあれこれの「身体的」領域の過保護なプロテクト(心身が「高密度のストレス」に不断に晒されすぎて「軟弱」になっているのだ)・・がもたらす悪影響なのかもしれない。



かってラマナが語られたギリプラダクシナについてのお言葉の中で最も有名なものは、

「ギリプラダクシナほど良いものはない、ギリプラダクシナだけで十分だ。」

・・・というものである。


もちろんこのお言葉は「ある問答の中で語られた全体」からの抽出であり、その展開の文脈を無視して単にこの言葉だけをそのまま普遍化する・・のも考えものではあろうし、時代背景も全く異なることも厳然たる事実である(ラマナが肉体的に在世されたのは既に66年以上の昔となってしまった)。


実際に「現代のこの状況下で『歩く』ことに、どれだけの意義があるのですかね?」という質問を受けることもあったりするのだが(笑)、それに対しては次のように答えることにしている。


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「ギリプラダクシナ」は歩く禅です。そして禅の言葉として、

「安禅必ずしも山水を用いず」・・・というものがあります。

この言葉をどれだけリアルに実感できるか?・・・が全てですよ。

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ギリプラダクシナの総合解説・紹介コーナー↓

http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/giripradakshina-folder/generalinfohp.htm

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