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2016年06月26日23:06

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生き抜く意思の奔流と生と死の境界 『レヴェナント:蘇えりし者』

息子を殺害され復讐へと生きるグラス(レオナルド・ディカプリオ)。
その息子殺害の犯人で、やはり生存へあがくフィッツジェラルド(トム・ハーディ)。
本作は、2人の、生き抜く力の奔流と同時に、どちらが生き残るのか?
雄大な自然を背景に生と死の境界を切り取る。*1

毛皮を求め狩猟に向う一団のガイドであったグラスを熊が襲う。
瀕死の重傷を負う彼を「足手まといだ」とフィッツは切り捨て、
それへと反対した息子を殺害。グラスを墓穴に生き埋めに――。
「父子ともに死んだ」と一団の隊長へ報告する。
だがグラスは伝説の「死霊(レヴェナント)」のごとく墓穴から這い出し復讐を誓う。

グラスは雪原を這い回り、腐肉を漁り、
凍死を回避するため死んだ馬のはらわたを引き出し、湯気をたてる血の皮を被る。*2
憎悪を活力に生命へすがりつく。
本作に通底する生き抜くための膨大な熱量が映像へ充満する。*3

一方、生命へすがりつのはフィッツも同様だ。
生き抜く選択にフィッツはグラスを切り捨てる。*4
道理に悖(もと)れ、*5 フィッツは自身の欲望――生きる力――を糧に生存をめざす。
自身の罪に“復讐”が迫り来る場面になってもあきらめない。
逃亡し、その果てでグラスと対決を望む。

ベクトルこそ違えど、両者は生存へしがみつき、
その生き死にを描き出すのが本作だ。
2人の人間の生きる力の衝突が、
雄大な自然をコントラストに極(きわ)立つ。*6


※1 本作のもう1つの主役は雄大な自然の風景だ。きびしくも、うつくしい。だが、自然は人間の生き死になど歯牙にもかけない。ただ流れる。

※2 この場面は衝撃だ。そうするしかない、ゆえ不快や禁忌を捨て置く。究極の選択だ。吹雪が終り、死んだ馬の体内から這い出る場面は、監督が送る一種の悟り、同時に生まれ変わりの場面かもしれない。

※3 表現はしにくいが、本作はつねに打楽器のような下半身に響く重低音の音が「ドンドン」と生命の本流のように鳴り続けているような作品だ。

※4 だが生き抜く選択としてのフィッツの行動は、ある意味で真っ当だ。切り捨て前進するのは、結局、我々が進化と生存のために選択してきた“事実”ではある。それゆえ切り捨てない行動が、人間の持つ慈悲と勇気の“光”を形作る。

※5 この感想はわざわざ見に来る人は、変な話、教養がありそうでだいじょうぶそうだが「道理に劣る」ではなく「道理に悖れ」です。誤用をよく見ます。

※6 2人の復讐と生存は雄大な自然のなかでは、ある意味では矮小にも見える。2人の対決を「自然」が飲み込んでしまいもするからだ。そのマクロとミクロのコントラストが監督のねらいなのかもしれない。また、最後にグラスは、復讐の行く末を「自然」へとまかせる。作品に重要なキーのネイティブ・アメリカンが彼を許し、生き残る結果は、グラスの復讐が自然の摂理のなかで許された暗示なのかもしれない。
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