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2016年06月16日07:41

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伸(の)るか 反(そ)るか

人は
自分の居場所が無いと感じられた時
しかも
外界のどの場所にも
自分が居れないことを自覚している場合
さらに
引き籠っている事が
これ以上続けられない状況に追い込まれた時

どうすべきであるか。

この問題を
引き籠る側を主体として
考えてみたい。

引き籠る主体は
「常識」とは「異質な」感性を持ち
「正常」から見て「例外」と捉えられ

「通常の判断」では
引き籠っていることが
そもそも「間違い」で
「社会に出て働く」ことが
「正しい」
という
「固定観念」
から
「早く社会に出て来なさい」
と強制され続けることになるのであるが

引き籠る主体の側からは
「じゃあ我々の感性の世界に
 あなた方は所属し続ける事は出来ますか」
つまり
「引き籠る主体の世界の中に
 適応出来ますか」
と問われれば
「正常な常識人」は
「引き籠る主体の世界」に
「適応」出来ない筈である。

たまたま
「正常」と言われる
「常識人」の数が
多いから
「正常」とされる人たちの世界が
「メジャー」であり
引き籠る主体の世界が
「マイナー」であるだけで

その逆であれば
引き籠る主体の世界が「正常」で
社会に出て適応する主体の世界が「異常」と
判断されるだろう。

例えば
「出家」あるいは「世を出る事」を「理想」と考える
上座部仏教の立場からすれば
「在家」あるいは「世に出る事」は
「理想ではない」生き方と
映るだろう。

また
マルクスの立場からすれば
世に出て
自分自身の労働力を商品として資本家に売って
自分自身を支配者の意のままに動く道具に身を落とすことは
人間疎外として受け容れ難く
自分自身のアイデンティティを回復するために
プロレタリアート(労働者階級)による
資本家階級からの主権奪回を
目指すだろう。

引き籠る主体は
社会に出て適応するタイプの人間とは
異る特性を持って生まれているのだとして
しかも
その特性は「自然」な特性であり
何等かの「成育上のトラブルに巻き込まれた」事などを
「原因」として
「不自然」に歪められてしまった過去がない
のであれば

むしろ
引き籠っている事は
引き籠っている「場所」の外部の世界の「どこにも」
引き籠る主体が「求められる場所(居場所)」が
たまたま「存在していない」だけのことで

引き籠る主体にとって「適切な居場所」が
「創造」されれば
引き籠る主体の「生き得る場所」が
出来るだろう。

そのような場所を「創造」する人と出会えれば
幸運であるが
なかなかそういうことは現実に起らない。

(「居場所」が無い人に「居場所」を与える試みは
 様々に行われている。
 「フリースクール」や「当事者研究」という形で。
 けれども、それらの「試み」によって
 「与えられる居場所」が
 どこまでも「他律的に」与えられるものである限り

 (「フリースクール」や「塾」も様々で、
  中には「拉致監禁」という
  「暴力的手法」を採用する「自立支援団体」も存在する。
  「当事者研究」も
  「SST(Social Skill Training=社会生活技能訓練)」や
  「認知行動療法」を基盤としているものの
  自律性療法やドイツ古典哲学を基盤とした
  「居場所創造」の「方法(手法、技法)」は
  未だ開発されていない段階である。)

 当人の「自律(自立)」の「方法」を
 当人に「修得」させることには「繋がらない」。
 どこまでも「自分の居場所」は
 「自分」で「獲得」する「道(方法)」を
 「自分」で「発見」出来なければ
 「自立」の「支援」が「成功した」とは
 言えない。)

ならば
自分で「自分の居場所」を
「創造」する以外に「道」はない。

その「創造」は
普通の人が「就活」と呼んでいる事と同じで
自分の「居場所」が「外に見つけられない」からこそ
自分で「創造」するのだ。
(「就活」する人は
 「外の世界」に
 「自分の居場所」を見つける事が出来る人で
 そうでない人は
 「自分の居場所」を「作り出す」以外に
 生きる道は無いのだ。)

もしも自分で自分の「居場所」つまり
言い換えれば
自分が社会の人々にとって
「役に立てる場所」を
自分が「創造」できなければ
自分に生き続ける可能性が消える
ということになる。

つまり
親族に殺されても
文句は言えない

のだ。

居場所が無いような性分でこの世に生まれた自分自身が
どうにも変えられないのであれば
(つまり正常な社会適応が不可能だと悟ったのであれば)
「今のままの自分で生きてゆくことの可能な場所」を
「創造」する努力をすること以外に
「サバイバル」の道は無い。
(通常の「社会」に「居場所」が無い人を
 「治療」するのが「精神医学」の目的なのだが
 その「治療」が成功する確率は低く
 たとえ
 通常の「社会」に「適応出来ない人」が
 「適応出来る」ように「成れた」としても
 当人にとってそれが
 「自分自身を失ってしまう事」であるとしたら
 それが「成功」と果たして言えるのかどうか
 ということが「問題」である。)

社会に「順応」することが
「死」でしかない人間にとって
自分自身が「生きる場所」を「創造」することは
死活問題だ。

(このケースは STAP 現象が生起する条件に似ている。
 つまり細胞が生きてゆくことが限界な状況に置かれた時
 脱分化して自らを幹細胞化できなければ死滅し
 脱分化して幹細胞化出来た細胞は生き残る
 という死活問題と同じ状況に追い込まれていると言える。
 この時、自らのアイデンティティが保とうとする細胞は
 そのアイデンティティでは耐えられない環境に損傷されて
 死滅し
 自らのアイデンティティを脱分化によって
 morphallaxis(形態再編)し
 幹細胞へと再生して生まれ変わる事が出来た場合
 にのみ生き残れるのであって
 その「再生力」は
 明らかに「外圧」ではなく「内発」である。
 とはいえ「環境」という「外圧」が契機であったことは
 確かであるが
 「他律」的に脱分化して幹細胞化(morphallaxis)する
 のではなく
 「自律」的に脱分化して幹細胞化(morphallaxis)する
 ことでサバイバルする細胞が
 ごく少数であるが存在する
 ということを主張するのが「STAP 現象」の要旨だ。)

このことが
「死活問題」であると自覚されれば
この「問題」の「解決」に向けて
つまり
この「問題」の「解決」を「目的」とした
「行為」が
設定され
開始される。

このことが
「死活問題」とならない
ことが
引き籠りを続けさせている。

つまり
引き籠っていても大丈夫であるような
「経済的余裕」が
引き籠りを続けさせている。

けれども
「これ以上引き籠ることは経済または家庭の崩壊を招く」
ということを
引き籠っている主体が「自覚」する時
(或いは「引き籠りを許している主体(=親)」が
 「自覚」する時)
引き籠っている主体は
(引き籠りを許容していた主体(親)は)
「動きたくなくても動かざるを得なくなる」。

もしもそれでも尚
動かない場合は
家族や経済は
「必然的に」崩壊する。

それだけのことだ。

それが
当人達の本意であろうと
なかろうと。

したがって
「崩壊」を「回避」する為には
(分化した体細胞が
 自らの「体細胞としてのアイデンティティを放棄して」
 即ち「脱分化」して
 自らを「幹細胞」へと「morphallaxis(形態再編)」する
 ことを通じて
 「サバイバル」に成功するように)
自分自身の「居場所」を
自分自身で「創造する」以外に
崩壊回避の「道(方途)」は存在しない。

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最終更新
平成28(2016)年6月16日 午前8時5分
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