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2016年06月12日10:57

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受講中の白日夢

 このところ二週間ほど、久松真一『起信の課題』と悪戦苦闘に終始。結果は現況「マルでわからんなあ!。
(おかげでこの二週間、私奴のPCの前のデスクは上掲の写真のごとし。混乱状態は私奴の頭に及び、この日記を書くのもサボッテいるという始末。もっとも、赤提灯の巷で悪友と呑むという機会だけはケッシテ見逃してはいなかったが。)
 
 上掲写真の中央は、学校の教堂(講堂にあたる)の正面。臨済宗の大学だけに、白隠禅師の書かれた円相図を拡大して掲げてあるのだそうな。
円相図は、ご承知のとおり、悟りや真理、仏性、宇宙全体などを円形で象徴的に表現したものとされる。(写真は、たまたま火曜日の仏教戒律の授業が一般社会人に公開されたため、普段とは違った広い教堂で授業があった際に写したもの)

 この日の授業の内容は、広く社会人にも一般公開ということもあって、「戒律」の話ではなくお釈迦さんの時代の仏教についての講話といったものだった。私奴は聞くともなく聞きながら、話の内容よりも先生の背後に掲げられた円相図と、にらめっこしていた。
にらめっこしながら、頭の中はしきりと「大乗起信論」と『起信の課題』で久松真一が論じていることを反芻していた。

 耳からは、「お釈迦さんの仏教では、超越者の存在を認めず現象世界を法則性によって説明する」なんて話が流れ込んでくる。頭の中では「大乗起信論」の真如という言葉が踊り、久松真一によれば、その真如こそが実体であると強調する。
「あーあ、何のコッチャねん?マルで(マルが)わからんなあ!」と頭は右往左往し、正面に掲げられた円相図が大きく歪んだり真円になったりしている錯覚にとらわれた。

 今少し我に返ったら、正面の円相が心なし微動し、「衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり」との、白隠さんの言葉が聞こえたような気がした。

写真右は、種播き後2か月を経過した朝顔。私奴は一歩たりとも進んでいないのに、朝顔は随分と成長した。花が咲きだすのが楽しみだ。
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