11.
登山を終え、下宿先に戻ってきた二人は食堂で落ち合うことにした。リリーは飲み物を注文しようと手を挙げた時、ラムネの瓶が再び目に入った。
……今度は注文してみようかな。
「春花さんは何を飲みますか? 私はラムネを飲んでみようと思うのですが」
「じゃあ僕も同じのでいいですよ」
年配の女性に声を掛けると、目の前で開けようとしてくれたが、彼女は咄嗟に手を小さく振った。
「あ、いいです。自分で開けたいので」器具を使ってビー玉を落とすと、煙が指にまとわりつく。「それにしても懐かしい。小さい頃によく母と二人で夏の暑い日に飲んでいたんです」
ビー玉を傾けラムネを口にした。口の中をくすぐる独特な感じが堪らない。
「春花さんはラムネでよかったんです? お酒は飲まないんですか」
「実は下戸でしてほとんど飲めないんですよ。缶ビール一本飲んだら顔が真っ赤になってしまう程弱いんです」
……意外だ。
自主的に規制しているのだろうと思っていたのだがほとんど飲めないとは。
「じゃあ明日は無事に終わったら一杯だけ祝杯をあげませんか」
「そうですね、一杯くらいなら大丈夫です。お供しましょう」
再びラムネを口に含む。ビー玉の音が心のガラス玉にリンクしていく。母親と飲んだ姿が巻き戻ってくる。
……今ならいえるかもしれない。
抑えてきた心の蓋を外すにはここしかない。明日は縄文杉に向かうのだ。椿になら少しだけ話せるような気がする。
「実は私の母親と別れたのはここなんです」
椿は何もいわずに彼女の方を見ている。静かに先を促してくれているようだ。
「春花さん、昨日屋久島でお菓子をくれた人がいるといっていたじゃないですか? その方は女性でした」
「ええ、女性だったと思います」椿はゆっくりと頷いた。「あれから考えたんですが、店にあった縄文杉の絵はその方から頂いたんです。カメラマンだったと思いますよ」
……やっぱり。
椿の店を思い出す。あの写真に反応したのは、縄文杉の写真だっただけではなかったのだ。母親が写していたからこそ、急激に吸い込まれたのだと納得する。
「……そうでしたか」
一息ついて椿の目を見る。彼の瞳には自分の記憶よりも新しい母親が映っているのかもしれない。
「もしかしたらそれは母かもしれません。母は宮之浦岳に登りに行ったまま、帰って来なかったんです」
「……なるほど、そういうことでしたか」椿から明るい色が消えていく。「いつの話ですか? その、お母さんとお別れになったのは」
「ちょうど二十年前の冬です。私が五歳の頃でした」
「二十年前ということは……僕が十歳の頃だから多分同じ時期ですね」椿は再び頭を悩ませる。「昨日もいいましたが、飴を貰ったんです。確かチェルシーの飴だったような気がします」
「……それ、母のお気に入りです。間違いないみたいですね」
リリーはグラスを落とし肘をテーブルの上につけてうずくまった。
「まさか春花さんと会っていたなんて……。こんな偶然ってあるんですね」
「本当に……」彼は昨日とは変わって穏やかに食事を取り続ける。「差し支えなければ、お母さんの話を聞いてもいいでしょうか?」
「ええ、私も少しだけ話したかったんです」再びラムネを口を潤す。「花が大好きな人でした。毎週のように苗を買って来て、庭に植えていました。自然が……大好きな人でした」
急に涙が零れてくる。ただ母親の話を共有できたということだけで高ぶってしまう。
二十年間、押し殺してきた感情が動き始めている。このまま進んでしまえば止める術はない。
……それでも彼になら聞いて欲しい。
「春に家族でこの山荘に泊まりにきたんです。父親と母親に囲まれて縄文杉へ向かいました。その途中、私が駄々をこねて父親と引き返したんです。母親はカメラマンで仕事で来ていましたから、そのまま縄文杉を見た後に宮之浦岳に行く予定でした」
辛く切ない過去だ。それでも自分がしたことが許せなくて、今でもガラス玉で蓋をしている。ガラス越しに溢れそうになる心にある感情が垣間見える。
「私がぐずらなければ……父が母の荷物を肩代わりしていれば、母は助かったかもしれません。それでも私は自分の感情に負け続けて、自分の殻に閉じこもってしまいました。母が亡くなってからも父は取り付かれたように仕事をするようになって、私達の家庭は崩れたんです」
「そんな経緯があったんですね……」椿は低い声でいった。「知らずに誘ったとはいえ、すいません。……明日、行けそうですか?」
「……もちろんです」リリーは涙を掬って彼を見た。「母に会うために……ここに来ることを決めたのですから」
12.
屋久島三日目。
午前四時のアラームで目が覚めると辺りは真っ暗だった。もちろんまだ日は昇っていない。朝食は登山口に着いてからという予定にしていたのでシャワーだけ浴びておく。
椿と待ち合わせ外に出ると空は満天の星で埋まっていた。まるでホロスコープが丸ごと空に掛かっているようだ。隙間無く埋まっている星達に目を奪われる。
「こんな時間に星を眺めることができるなんて不思議な感じですね」リリーはぼそりと呟いた。
「ですね。何だか空に吸い込まれそうだ」
星に意識を奪われながらバスの停留所に着く。他の登山客もたくさん並んでおりバスを待っている。
ぎゅうぎゅうに詰め込まれたバスから降りて空を眺めると柿色の朝焼けが映っていた。
いよいよ縄文杉への登山だ。ついに百合が眠っている場所へ向かうことができる。
はたして自分は本当に母親に再会することができるだろうか――。
歩き始めるとトロッコが通るレールが続いていた。パンフレットによると、二時間くらいこの道が続くらしい。距離にして8kmを越している。時計を見ると六時半を指していた、遅くとも九時には着くだろう。
レールを作っている木の板は大分古くお世辞にも整っているとはいえなかった。しかし平坦な道なので足に負担は掛からない。それでも筋肉痛で一歩歩く毎に足が痛む。ここを見るために来たのだ、泣き言はいえない。
山に入って二日目。杉にも色々な形があることがわかった。伸び方は違っても木の先は上を向いている。倒木の上に生まれたての杉があったり光を浴びることができず枯れて茶色くなっている杉もある。言葉を発さずただ黙々と成長する杉を見ると心を揺さぶられる何かを感じる。
「凄いですね、ここは」
徐々に強くなる太陽の光を浴びながら植物を眺める。植物達は光を受け入れようと葉をうまく伸ばしており、屋根に設置されてある太陽電池のように余すこと無く整然とした姿で並んでいる。その姿に合理性を感じ関心してしまう。
「小さな杉にも命があることを教えてくれますね」
椿は夢中になりながらも、背の低い杉に腰をおろしてシャッターを切る。やはり彼の視点は自分とは違いピンポイントで見えているようだ。
観光客も多く一本道なので後ろから追い越されることも多い。だが追い越されても自分の心は不思議と乱されることはなかった。
登山には本当に時間の概念を消してくれる力があるようだ。
トロッコ道を通り抜けた後、椿を見ると、彼は空模様を気にするかのように天井を見上げていた。
「冬月さん、空を見て下さい。雨が振りそうですね」
「ですね、そろそろレインコートを着ましょうか」
雨が振れば登山はきついものになるだろう。だがそんな景色さえも見てみたいと思ってしまう自分がいた。雲に覆われた森は薄暗いが、神秘さが増し静謐な空間を作り始めている。すでに光を失った森は重厚な色彩を放ち自分の心を穏やかにしていく。
「この次にはウィルソン株があるんですよね。そこまで行った記憶はあるんです」記憶を頼りに発言する。
「そうですね。後もう少しです」
山道に入ると、道と呼べないような岩ばかりが目についた。大石を割った所を抜け、屋久杉の根を踏みつけながら進んでいくと、川の先に大きな切り株が見えた。
これがウィルソン株。その圧倒的な大きさにリリーは目を奪われた。株の入り口には一度に三人くらい入れそうな隙間があり、天井はぽっかりと穴が開いている。光が差し込んでいるため、そこまで暗くもない。
「やっとつきましたね」
椿と並び中に入ると、左側の片隅に小さい神棚が立っていた。
「お賽銭入れもあるみたいですし、少しだけ休憩しましょうか」
彼と共に祈りを捧げる。切り株の中にあるためか、厳かな雰囲気がさらに高まっていく。
……お母さん、ごめんなさい。
謝りながら手を合わせ母の声に耳を傾ける。
……ここまで来るのは怖かったけど、やっと来れたよ。
家庭の花と共に映る母親の姿が走馬灯のように切り替わっていく。
……もうすぐお母さんが見た縄文杉に辿り着きます、やっとここまで来たよ。
母が愛した縄文杉を見て、私は何を感じられるのだろうか。何も感じられないような気がして、再び恐怖心に苛まれる。
……正直、まだ先に行くのは怖いけど、一人じゃないから、そっちまで行けそうです。
隣にいる椿を見て思う。彼となら、母親の声が聞こえるような気がする。
だからこそ、私はまだ先に進める。
「冬月さん、こっちに来て屈んで天井を見て下さい」
お祈りを終えると、椿は右端に座ってリリーを待っていた。
彼のいう通り、近くに座って天を見上げると、先ほどまで歪んでいた切り株の穴がハートの形をしていた。
「視点を変えるとうまく見えますね」
椿は感心しながらもシャッターを切る音がおさまらない。夢中になって子供のようだ。
……やっぱり彼となら。
彼の笑顔を見て、心の中にある恐怖心が期待に変わっていく。ガラス玉の中に蠢くマイナスの感情が薄く溶け、淡く穏やかな気分になっていく。
やはり椿となら、きちんと縄文杉に向かい合えそうだ。
13.
縄文杉を辿る道もまた、もののけの森に負けないくらい幻想的な世界だった。
伐採されずに残った大木は螺旋状に伸びており途中で着生した植物の枝が表皮を多い尽くしている。アンバランスな枝の張り方に何ともいえないものを感じる。
……椿なら、この木を見て何と表現するのだろう。
彼の意見が訊きたくなるし、彼の笑顔が見たくなる。心の感情が少しずつ色を付け始めていく。だがまだその液体はガラス玉で蓋をされており、表現することはできない。
「冬月さん、見て下さい。凄い大きな木が繋がっています。夫の方が二千年、妻の方が千五百年も生きているみたいですよ」
椿の指の方向を見ると、夫婦杉と呼ばれる二本の大木が三m以上も離れているお互いを繋いでいた。まるで手を繋いでいるかのように一本の節で結合しているのだ。
長い年月を掛けて硬い絆で結ばれている杉達は本当に恋人同士のようだ。
隣にいる椿の手を眺める。細く長い指に男性らしさは感じられないが、自分の手よりも一回り以上大きい。
……この手を掴んだら、どうなるだろうか。
不意に心臓の鼓動が早くなる。今更だが男と二人で旅に来ているのだ。そう思うと、心臓の高鳴りはさらに激しくなっていく。
「どうしました? 顔が赤いですよ」
椿に指摘され顔を背ける。これ以上、この場にいたら心臓が破裂しそうだ。
「いえ、何でもありません。五百年の間、ずっと彼は彼女を待っていたんですね」
話題を変えると、彼は人懐っこい笑顔で頷いた。
「そうなんでしょうね。千五百年も夫婦でいられるっていうのは幸せですね」
彼の目になぜか哀愁を覚える。彼も両親との間で問題を抱えているのだろうか。家業の話も訊けずにいるのだから、あまり訊くのも失礼だ。
……どうしてこんなに彼のことが気になるのだろう。
警察としての職業病ではないような気がする。いつの間にか、彼のことしか考えていない自分がいる。母親に会いに来たのにだ。
……この感情は逃避? それとも愛情?
母親に会うことを恐れて彼のことを考えているのだろうか、それとも純粋に彼のことを考えているのかわからない。
……それでもこの手を掴んでみたい。
「春花さん、ちょっとだけ手を握ってもいいですか?」
「ええ、いいですけど」
彼の手を握ると、心の底から安心していく。幼い頃に握って貰った母親の温もりが返ってくる。
「すいません、いきなりこんなことをいって……」
手を握った後に後悔する。こんなことをすれば、彼にどう思われるかわからない。
それでも自分から切り離すのは申し訳ない気がして、立ち止まっていると、他の登山客から微笑が漏れ始めた。
「……そろそろ、先に行きましょうか」
そういって椿は再び自分の手を握り直して足早に走ろうとする。
彼の体温を感じながらも、リリーはなされるがまま彼の後ろをついていった。
「もう大丈夫でしょうか?」
椿が申し訳なさそうに手を解くと、リリーは何度も頭を下げて謝った。
「すいません。特に意味はなかったんですが、あの、その」
「大丈夫ですよ。そういう時もあります」
そういって彼は笑顔を見せて再びシャッターを切り始めた。無言の優しさに触れ、リリーは穏やかに頷いた。
14.
三十分ほど山道を登って行くと、足場は最早ないに等しいくらいに悪くなっていった。岩を登ったり木の根を蔦って降りたりと瞬間的には次の道が認識できない。赤いリボンがなければ間違いなく迷ってしまうだろう。
慎重に手を使いながら道を進んでいくと、目の前に大きな木で出来た階段が現れた。見上げると遥か上空に巨大な木が見えている。ついに辿り着いたらしい。
リリーは思わず声を上げて後ろを振り返った。椿もにっこり微笑んで頷いている。
……あれが、縄文杉。
彼女は走り出していた。10m以上ある階段を夢中で登っていき上空を目指す。早くあそこからの景色が見たい、早く会いたい、その思いから足は自然と駆け足になっている。
登り終えた後、目の前には巨大な生き物がどっしりと腰を据えていた。パンフレットには高さ20mと書いてあったが、天空まで伸びているような錯覚を受ける。本当にこの木は生きているのだろうか?
木の根元を観察してみると、中心から円を書くように根が張り巡らされていた。まるで巨大な横綱が四股を踏んで構えているようだ。
「凄いですね……」
横にいる椿に声を掛けると、彼はゆっくりと頷いた。
「他の木も凄かったですけど、この木は特別に大きいですね。着生してある木の種類も凄く大きい」
背筋を伸ばして縄文杉と顔を合わせるようにまっすぐに立つ。その圧倒的な大きさに畏怖の念を感じずにはいられない。
着生している木、全てが長い年月を生き抜いた賢者のようにどれもが精悍な表情をみせている。一本一本の木が縄文杉の一部であり、全てを合わせて一つの大きな生き物を形成しているようだ。
「本当に生きているんですね……」
「そうみたいですね、本当に信じられないですが」
大学の卒業旅行で行ったフランスのモンサンミッシェルを思い出す。巨大な教会を中心とした様々な建築物が融合し一つの城を構えているような佇まいだ。
枝に茂っている葉にも着目してみる。丸い葉、尖った葉、ふわふわした葉など一言に葉っぱといっても形が違う。色も緑色だが淡い色、濃い色、はっきりした色、色鮮やかな色とそれぞれ違う特徴があった。それは昨日見たもののけの森を連想させるようだった。
……この生き物は一本の『森』だ。
母親が愛した、たくさんの生き物の束を融合させた一つの森。それが今、目の前に存在しており生きている。
これが縄文杉。太古を生き抜いてきたといっても疑う余地はない。
「冬月さん、ガイドの方が縄文杉の話をしてくれていますよ。もしかすると年齢のことも教えてくれるかもしれません」
椿がガイドの方を指差している。そこには団体を連れたガイドが縄文杉の説明を始めていた。その饒舌な口調は長年の経験を物語っている。
「そうですね。でも……私はいいです」リリーは微笑みながら答えた。「最初は年齢のことも知りたかったんですけど、本物を見ているとそんなこと、どうでもよくなっちゃいました」
……お母さん、本当にそう思うよ。
じっと縄文杉を見つめる。この木の本当の年齢なんか知りたくない。これだけ素晴らしい姿を見せてくれるだけで十分だ。
数字に囚われていたら見えるものも見えなくなる。母の言葉だ。今まで自分の人生は全て数字によって支配された。数字に支配されるため、といってもいいかもしれない。それくらい数字に固執していた。
しかし椿を見ていると、その考えこそが間違っているのではないかとさえ思ってしまう。椿の眼は数字ではなく本質を見抜く眼だ。素直な心で見続けありのまま表現する。
……感覚は本当に大切なものだ。
心の中で反芻する。自我を持たず感情に身を委ねるということは、怠惰なものではなく真実を見ることができる強い心の表れなのかもしれない。
百合はこの杉を見て何を感じたのだろうか。答えは永久に出ない。しかし今、自分はきっと母親と同じ感覚を味わっているのだ。そう思うだけで自分の心はふっと軽くなっていく。
この場所は心を開放することができる。これだけ大きな生き物に出会うと人は自分の感情を偽らなくてもいいのかもしれない。
「春花さん、ありがとうございます。私はここに来れて本当によかったです」本心を彼に告げる。「私は数字の世界だけで満足してたんです。それはとても狭い中での出来事だったんだなと思いました」
理論も大切だ。しかし感情も感覚も大切だ。
「今までは感覚に頼る仕事なんて馬鹿にしていた部分があるんです。母の仕事にしてもそうです。確かなものがないというのは妥協できる部分がある、甘い世界だと思ってました」
父の教えをそのまま受けてきた。だからこそ刑事になることができたし、自分の信念を貫くことができた。
「でもこの島に入ってから私はたくさんの感情を知りました。それは数字にはできないけど確かに私の心の中に存在しています。言葉にできなくても、心に残すことはできるんですね」
心のガラス玉が音を立てて崩れていく。眠っていた感情が沸き起こる。この感情を抑えることはできない。
「冬月さんは本当に素直な方ですね」椿は照れながら頭を掻いている。「何だか僕の心まで洗われるようです。そんなに喜んで貰えると僕も嬉しいですよ」
「いえ春花さんのおかげですよ。自然って凄いです」
もう、自分を縛るものは何もない。
……お母さん。
縄文杉を見ながら彼女に囁く。
私はもう自分を偽ったりしません。お母さんのように素直でいることにします。辛いことも楽しいことも全部含めてです。
これから、お母さんが撮った写真を覗いてみることにします。今まで押入れにしまっていてごめんなさい。
お母さんが亡くなってから感情を抑えていました。それが強い者の証であるようにずっと耐えていました。
でもこれからはたくさん泣きたいし、笑いたいと思ってます。
もちろんすぐにはできません。だって二十年も我慢してきたのですから。
それでも私は感情という花を大切に育てていこうと思います。
これからはこの花を枯らさないように生きていきます――。
縄文杉に別れの言葉をかわし帰り道を進んだ。今からは降山になるのでさらに足に負担が掛かるだろう。慎重にステッキを使いながら山道を下っていく。
ぽつぽつと予報通り雨が降ってきた。レインコートを着ていたため濡れにくくなっているが完全に防げるわけではない。
雨の中、周りの景色を眺めてみる。じめじめとした暗い景色ではなく苔や杉が雨に濡れて満たされたように穏やかな表情を作っている。足場は悪くなったが雨が降ってくれたことにも感謝したい気持ちになっていく。
雨が土砂降り状態になり地面がたくさんの波紋を作っていく。さすがにこの状態で歩くのは辛い。辺りを見渡すと雨宿りができそうな窪みがあった。二人はそこでしばらく様子を見ることにした。
「凄い雨ですね」椿がタオルで体を拭いていく。
「でも、この景色も綺麗です。なんだかこの景色こそが本来の姿なんだなって思うと雨に濡れるのが苦にならないんですよ」
レインコートの下はすでに水浸しだ。下着までびっしょりと濡れているが、不快感はない。山と一体化しているような気持ちにさえなってくる。
ふとリリーの目に閃光が飛び込んできた。それは洞窟の一番奥からだった。目をやると苔木の上にすーっと伸びた白い花があった。
近くによって指で測ってみる。人差し指の一節にもいかないくらい小さい花がある。
「春花さん、なんですかねこの花?」
「僕も初めて見ました、何でしょうね」
唐突に写真が撮りたくなった。心がこの閃きを逃すなといっている。
その花は可憐でリリーの瞳を焼き尽くすように光っていた。サクラの花びらを見た時と同じ感覚が迫る。この感情は留まることなく溢れ出てきている。
スマートフォンで一枚だけ写真を撮った後、彼女はこの感覚を忘れまいとしばらく花を眺めることにした。
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