6.
鹿児島船から降り、遠くの方で旗を振っている中年の女性がいた。予約していたレンタカーの業者だ。そこから手続きをし山荘へ向かう。
「もう、ついちゃいましたね」
椿は雲の掛かった山を眺めながらいう。この広大な景色を見て彼は何を思うのだろう。春に見た秋風家の庭を思い出し、彼の視点に興味が沸く。
「ええ、あっという間でした」
リリーは頷きながら桃子にメールを送った。友人が看病に来てくれるとはいったが、自分が手料理を作れずレトルトのものしか置けなかったことが少し気がかりだ。
山荘につきチェックインを済ませ、それぞれの部屋に向かう。風呂に入った後お互いに食堂で落ち合うことにした。
入浴後、食堂に行くと椿が先に席についていた。山荘に置いてあった浴衣を着て扇風機を体全体で浴びている。
「冬月さんの所のお風呂はどうでした?」
椿は食事に手を付けず待っていてくれたようで、たくさんの料理が目の前に広げられていた。
「なかなか、よかったですよ。特にこれといった特徴はなかったですけど」
「じゃあ明日はきっとびっくりすると思いますよ。僕の所は床が畳になっていたんです。変わったお風呂でした」
畳? 想像がつかない。
食事にありつこうとすると愛想のよさそうな年配の女性がこちらに近づいてきた。どうやらご飯をよそってくれるらしい。
「飲み物はいかがしますか?」
目の前には缶ビール、瓶のオレンジジュース、ガラス玉の入ったラムネが置かれた。
「……春花さん、どうします? 明日は山登りですし、ジュースにしときましょうか」
「そうですね」
リリーはオレンジジュースを二本取り、栓を抜いて彼の分にまで注いだ。
「じゃあ、いただきます」
美味しそうに食事を口にする椿。前回の事件の時のような鋭さは全く感じない。
「あーおいしいなぁ、このフライなんか特に。民宿で食べるご飯はどうしてこんなにおいしいんだろう。ああ、おかわりを貰おうかなぁ」
男性の食欲というのは本当に凄まじい。自分が二口食べている間に彼の茶碗は空っぽになっていた。
「そういえばどうしてこの旅館を選んだんです? 以前来られた時に使われたんですか?」
「いえ、ここには泊まったことがないんです」
椿はおかわりを頼みながらいった。これで三杯目だ。
「以前、屋久島に来た時に薦められたのを思い出したんですよ。畳になっているお風呂があるので是非行ってみたらいいと。そこの旅館はとっても人当たりがいいといってましたので」
「なるほど」
改めて食堂を見渡す。古い作りでありながら、木のぬくもりを感じられるとても居心地のいい空間だ。
だが妙に居心地が悪い。
「そういえば、その方に何かのお菓子を貰った気がするなぁ。一緒に登っている途中に、飴玉を貰った記憶があるんですよ」
胸がトクンと高鳴る。何か妙な胸騒ぎがする。
「その人は……大型のカメラか何か持っていませんでした?」
思いつくことを述べていく。
「荷物をたくさん持っていたとか、集団で行動していたとか、何か思いあたることがあれば教えて下さい」
「うーん、そうですねぇ」彼は神妙な顔をして唸っている。「どうだったかな。そんな気もするのですが。すいません、そこまでは覚えてないですね」
彼の表情を見て、動悸が収まる。仮に母親とすれ違っていたとしても、きっと彼は何も覚えていないだろう。
しかしこの空間、強い既視感を覚える。
もしかして、ここは――。
「ああ、そうだ。一つ思い出しました」
椿はポンと手を叩いた後、彼女から目を逸らしながら答えた。
「その人、確か山登りの最中、帰ってこなかったみたいなんです」
7.
品数が多い料理を堪能した所で、リリー達は必要なグッズを旅館から借りることにした。受付で尋ねると旅館のオーナーが対応してくれた。
「明日は珍しく天気がよさそうだよ、よかったね。お嬢さん、明日はどちらに行くの?」
もののけの森がある白谷雲水峡に行くことを告げると、オーナーは大きく頷いた。
「そうか、それはいい。屋久島の天気はすぐに変わるから雨が降っていなくても必ずレインコートは持っていってね。俺もお嬢さんのような綺麗な人と山登りに行きたいね」
オーナーは遠くにいる椿の顔をじろじろと眺めながらいった。
「違います。そういった関係じゃありません」
「ふうん。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」オーナーはかっかっかと笑い一言追加した。「そういえば二人は部屋が別々だったね。清い交際なんだねぇ、最近の若者にしちゃ珍しい」
「だから、付き合っている訳ではないんです。成り行きで二人で行くことになっただけで」
「大学のサークルか何かで?」
大学、と聞いてリリーの胸はときめいた。まだ女子大生に見えるのだろうか? お世辞だとしても嬉しい。
「そんな年じゃないですよ。友人がもう一人いたのですが、風邪を引いてしまって」
「本当に風邪なのかなぁ」オーナーは再び不気味な笑いを浮かべた。「それはきっとね、お二人に遠慮したんだよ。ここには自然だけはたくさんあるんだ。君達も自然な仲になれたらいいね。いひひ」
自然には興味がないと撤回したい。だがオーナーはそんな事お構いなしといった表情で椿の方へ目を向けている。
話題を変えなければ椿の所にも話しかけるかもしれない。
「そういえば、ここにはたくさんの写真がありますね」
「俺とかみさんで撮った写真だよ。かなり昔の写真だけどね」
季節毎の写真が綺麗な額縁で飾られている。冬に聳(そび)える縄文杉やみっしりと葉に覆われたハートの形をした木片、紅葉に塗れているもののけの森。その中に一つだけリリーの心を揺さぶるものがあった。
「あの写真は……どこで撮ったんです?」
雪景色の中、一つの大輪の花が写真全体に収まっていた。白い花びらが美しく、花一つで幻想的な世界を作り出している。
「あれは冬にしか咲かない花でね。オオゴカヨウゴレンという花なんだ」
「そうなんですか。じゃあ今の季節には見られないんですね」
リリーががっかりした声でいうと、オーナーは愛想を取るように優しく答えた。
「また冬に見にくればいい。その時は彼氏さんとうまくいっているといいね」
リリーが反論する前にオーナーはそのまま食堂に向かった。どうせいい直しにいった所で茶化されるのがオチだ。このままそっとしておこう。
談話室で腰を掛けている椿の側に寄った。彼は縄文杉関連の本を読んでいる。
「何か面白いこと書いてます? 縄文杉の年齢とか」
パンフレットには七千二百年生きていると書かれているが、厳密には違うらしい。今でも年齢については様々な説があるようだ。
「年齢のことは色々書いてますけど、結局わかってないみたいですね」
……年は関係ないわよ。
不意に母親の言葉が蘇る。理論に囚われず感情の赴くままに縄文杉に向かい合った母親にはどう見えていたのだろう。
今の私にはどう見えるのだろうか。
部屋に戻るためエレベーターを待つが、心の中には大きな葛藤が残っている。どうしても先ほどの話の続きが気になってしまう。
「帰って来なかったというのは?」
「何でも、登山をしている最中に遭難にあったらしいです」
その人は女性だったのだろうか。
それだけでも訊いておけばよかった。心の葛藤とは裏腹にエレベーターは機械的な音を鳴らし部屋の階へ辿り着いたことを知らせる。
「では明日の七時半にドアをノックしますので」
「はい、それではまた。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
「あの……」
「ん? 何でしょう?」椿が横顔でこちらを覗いている。
「いえ、やっぱり何でもありません」
「そうですか。それじゃまた明日」
椿の笑顔を見送りながら再び大きな溜息をつく。縄文杉の謎よりも彼の出会った人物の方が気になっている。
自分の部屋に入り持ってきたティーバックで一服つく。
……別にいつだって訊ける話だ。
心を落ち着かせるため紅茶に口をつける。部屋の造りに再び既視感を覚えながら、ストレートで飲み続ける。未だ甘いミルクを溶かすことには動揺してしまう。
……ここでなら、できると思ったのに。
間違いなくこの旅館は自分が訪れた場所だろう。心のガラス玉が絶えず動き続け、止まる気配がないからだ。
……桃子の具合はどうだろう。
電話を掛けてみるが一向に繋がる気配はない。もしかするとまだ寝ているのかもしれない。差し支えない程度のメールを送っておく。
……やっぱり、私は弱い人間だ。
自分の恐怖を取り除くために、人の心配をしている。自分よりも弱い人間を見て安心しようとしているのだ。
……こんなことで、森に入れるのだろうか。
母親が愛した森を受け入れられるだろうか。こんな気持ちで百合の気持ちを知ることなど、できるのだろうか。
……今でも会いたいよ、お母さん。
携帯電話の画面を閉じながら、彼女は膝を抱えたまま眠りにつくことにした。
8.
「桃子、体調はどう?」
目が覚めると目の前に友人の菜乃香
なのか
が立っていた。額がひんやりとして気持ちがいい。額に手を向けると冷たいタオルが熱を吸収している。彼女がきっと新しく替えてくれたのだろう。
「うん。大分よくなったよ、ありがとう」
「それにしても運がないねぇ」菜乃香は薄笑いを浮かべた。「遊びに行く前日に風邪を引くなんてさ。そういえば前にもこんなことがあったね」
「そうだっけ?」
「そうよ」彼女は人差し指を立てていった。「小学校の時の遠足よ。その前日に二人で三百円のお菓子買って帰ってさ、明日交換しようっていった時のこと覚えてる?」
「ああ、そんなこともあったね」桃子は懐かしむように思い返した。「そういえばそうだね。私、あの時も熱出して結局遠足に行けなかったもんなぁ」
菜乃香はくすくすと口に手を当てて笑った。
「そうそう。あの時もこうやって私が桃子のとこに行ってお菓子だけ交換したんだよね。で、今回は何で仮病を使ったの?」
菜乃香は微笑みながらも視線は反らさなかった。
「あの時は好きな男の子に振られたからって知ってるのよ。それも含めて私は慰めにいったんだから」
「知ってたんだ」
桃子が驚きの表情を見せると、彼女は何でもないかのように振る舞った。
「知らないわけないじゃない。何年付き合ってると思ってるの」
「菜乃香ちゃんには敵わないね」
桃子は頬を掻きながらいった。そして真剣な眼差しで彼女を見た。
「行かないといけない所があるの。いや行かなくてもいいんだけど。これも違うな。本当は行きたくないんだけどさ、確かめないといけないことがあるの」
「それって……」
菜乃香の絶望した顔を見た後に、桃子は小さく溜息をついていった。
「今回も小学校の時と同じ理由になるのかもね。でも私は迷わない。リリーさんも覚悟を決めてくれたんだから、私も……決めないとね」
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