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2016年04月24日13:01
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お題６『桜』 タイトル『花びらが散るように君を忘れたい』
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……あなたのことを絶対に忘れよう。
それがあなたに対して思った最後の一言だった。
出会いの種は僕がバーでバイトしていた時のことだ。僕の勤めていた店では一週間に一度、金曜日に生け込まれた花が届く。彼女は大きな鉄でできた器を両手で抱えながらバーカウンターに備えられた麻布の包装の中に押し込む。それが彼女には苦手のようで、器を持ったまま体が不安定になり何度も着地に失敗していた。だから必ず僕が麻布の包装を固定して彼女と呼吸を合わせることが週に一度の決まりだった。
僕は彼女の名前を知らないし、彼女も僕の名前を知らない。そのやりとりだけで僕達はコミュニケーションを取れるようになった。一度で上手くいけばハイタッチ、二回までだと手を振るだけ、三回を過ぎるとお互いに気難しい顔をして笑い合う。
彼女の赤いカチューシャを見る度に、僕の心に植えられた種はすくすくと育っていった。
それが半年以上続いた後、僕達は大学の食堂で偶然出会ってしまった。彼女はバイトの時と同様、カチューシャをしていたのだ。赤いカチューシャが彼女特有の味を出していて、一目で彼女だと気づいた。
彼女は友人と話しており、僕の視線に気づきながらも避けているようだった。僕も僕で友人がいるのだが、それよりも彼女の動向が気になった。
彼女は大学では自分のオーラを消しているように見えた。友人と話す時も、相手に話をさせるように話題を振っていたし、聞き上手な人がする相槌にも磨きが掛かっていた。僕の中での興味は彼女が何学部かということだった。
「おい、どこ見てんだよ」友人の一声で僕は彼がいることを思い出す。
僕は恥ずかしげもなく彼女の方を指差す。
「え、もしかしてお前、好きなの？」
「いや、バイト先で会ったことがある」
僕の学科は農学部だった。応用生物学科といって農学部の中でも広い範囲で活動をするのだが、彼女を見たことがなかった。
この大学にあるものは他に工学部と教育学部だ。比率から考えれば、きっと教育学部だろう。
「ふーん、お前、ああいうのがタイプなんだ。気が強そうだな」
「ほっとけ」
友人の話に相槌を打ち、彼女の身の回りの環境を判断して推理する。友人と共通のものがテーブルの上にある、楽譜だ。彼女はきっと教育学部の中でも音楽科なのだろう。
「やめとけよ、あそこに座っているお嬢さん達、皆、金持ちだから」
そうなのだろう、と思った。姿勢のよさ、話し方、笑い方、全てに品を備えていて僕が扱っていいような代物ではないということはわかっている。
「まあ、見る分には構わないさ」
僕は自分に言い含めるようにいった。
秋の季節にぴったりな朱色のロングスカートに僕は目を奪われる。黒のタートルネックから出ている細い首、薄いチェックのグレイのカーディガンが彼女の細い体を引き立たせる。その組み合わせは卑怯だろう、どうぞ見て下さいといわんばかりのコーディネートだ。
彼女は他人行儀な笑い方をしながら、友人と席を離れた。これ以上、視線で追うことはできない。どうせまたバイト先で会えるのだ。深追いはしないでおこう。
そう思ったのが僕の恋の始まりだった。この心に生えてある蕾を、今でも捨てることができないでいる。
三日後の金曜日、僕はバイト先で彼女が来るのを待った。グラスを拭いてもボトルを拭いても、一向に時間が経たない。彼女は客が入る前にだいたい来るので、後１５分以内には来るはずだ。それでも彼女は来ない。
カランと扉が開く音がした。彼女だ、僕は体を前のめりにしドアの行方を追った。そこには大きな器を持った男の人が立っていた。
…今日は彼女じゃないのか。
普段でも彼女じゃないことは度々にあった。それでも今日はなぜか彼女がくる、という謎の確信を持っていた。そうでなければ自分に不都合だからだ。
彼に合わせて麻布の包装を固定する。もちろん彼ほどの大柄な男であれば必要ないのだが、習慣になってしまったため体が勝手に動いてしまう。
「彼女は店にいますか？」
僕は思ってもいなかったのに言葉を発していた。
「ん？ああ、今日は店で花束を作ってる」花屋の男は的確にアドバイスをくれた。「悪いな、彼女の方がよかったか？」
「いえ、別に……」
僕は小さく呟いた。彼に自分の気持ちを述べても仕方がない。不運だったと思って諦めよう。
「伝えることは？」
「特にないです」
男は無言で立ち去ろうとした。その背中に僕は何かをいわなければならない衝動に駆られ、一言だけ口走ってしまった。
「カチューシャ、いいですねと伝えて下さい」
男に聞こえたのかどうかは定かではなかったが、僕の胸に突っかかった気持ちは半分ほど無くなっていた。
次の日、僕は食堂で一人でご飯を食べることにした。教育学部の連中がよく座る場所でだ。食堂に指定席などない、こっちから踏み込むことだってできるはずだ。
彼女を一目見たかった。一目見て、彼女がきちんと存在していることを確認したかった。一週間に一度会えないだけで僕の心は淀んだ水のように腐っていく気がした。
食器を載せるための大量のバトンを眺めていると、一人だけ目についた。確か彼女と一緒にいた友人だ。彼女がいるということは彼女も――。
僕の目はその辺りに集中した。彼女の手がかりを手にいれたい、どうしても君に話したいことがある。
彼女を見つけた、そう思った僕の気持ちは燃え上がってたが、一瞬にして鎮火された。
彼女は赤いカチューシャを外していたのだ。
次の金曜日、僕は憂鬱でバイトを休みたかったが、もちろん休めるわけもなくグラスを拭いていた。カランと音が鳴ったが、きっと背の高い男性だろうと思い、僕はグラスを拭き続けた。
しかし僕の予想は外れた。彼女が重たい器を抱えながら入ってきたのだ。
僕は反応に戸惑った。手を伸ばせば、麻布に手が届く。だが予期していなかったため、手は泡だらけだ。この手で固定すると滑るかもしれない。
すでに彼女は自分の視界まで迫っている。ここは黙っておけばいいのだろうか。彼女だって自分の仕事なのだ、一人でできるし僕が手伝わなくても――。
「ちょっと待って下さい」僕は泡だらけの手でいった。「少しだけ待って」
急いで手を洗うが布巾がない、僕は掛けてあるエプロンで手を拭く。早くしないと彼女の手が疲れてしまう。
「いいですよ、そんなに慌てないで」
彼女はそういって笑った。その頭には赤いカチューシャが付けられていた。
僕はほっと息を漏らした。僕の中にある芽は再び息を吹き返し、根を生やしていけそうだった。
次の金曜日、僕はバイトに早く出た。彼女が来てもいいように自分の仕事を終わらせておきたかったからだ。どうか彼女が来ますように。僕の願いはその一点だった。
大学で彼女を見掛けても、話しかけないでいた。なぜかはわからないが、彼女は素性を隠しているような素振りを見せていた。教育学部の音楽科は高嶺の花だ。きっと身の振る舞い方があり、僕が入っていい領域ではないのだろう。
からんと音がする。鉄の器が扉の把手口とぶつかり鈍い音がする。間違いなく花屋だ。
「こんにちは」彼女の声が店に響く。
「こんにちは」僕もなるべく優しい声を出そうとする。警戒心を解いて欲しいからだ。
彼女は僕の顔を見て、微笑んだ。その笑顔にもう引き返せない、と確信した。
僕はもう完全に彼女の虜だ。どうなってもこの恋は始まってしまっている。
「いつもすいません」彼女は微笑みながら僕が持った麻布に器を嵌め込む。「あら、今日はグラスはもう洗ったの？」
「ええ、あなたと少しでも話したくて」
僕は正直に思いを伝えた。一週間という待機時間が僕の恋心を加速させていた。
「そう、じゃあ少しだけ話していこうかな」
彼女はそういってバーカウンターに座った。
時計を見ると、いつもより１５分ほど早かった。彼女もまた時間を早めていてくれたのだと気づく。
「カチューシャお似合いですね」僕は手持ち無沙汰だったため、意味もなくボトルを拭いた。そうでもしなければ面と向かって話せないからだ。
「そう？ありがとう。嬉しい」
彼女は歯を見せて笑った。少しだけ八重歯が見えてどきりとする。
「どうして大学でカチューシャを外しているのですか？」
僕はさらに彼女に踏み込んだ。触れてはならない領域に足をいれなければ、彼女との続きは見れない。
「ん？やっぱり気づいてた？」
「気づきますよ。だって僕の時間は今、この一瞬しか動いていないのですから」
自分でも理解できていない言葉を発してしまう。愛の告白よりもプロポーズの方が敷居が低いように、僕は淡々と思った過激な言葉を口にする。
「正直にいって後悔しています、背の高い男性にいったこと」
カチューシャが似合うといった言葉を訂正したかった。いわなければ僕は大学で彼女を容易に探すことができたし、彼女の秘密を独り占めしているような感覚を味わうことができた。
「私は何も聞いていないけど……何かいったの？」彼女は目を伏せながら答えた。
「あなたのカチューシャが好きだということをいいました」僕は彼女の目を見ていった。もう後戻りはできないし、するつもりもない。「好きなんです、あなたが。あなたのことを何も知らないけど、知りたくてしょうがないんです」
「そう……」彼女は深く目を伏せる。
やはりダメだったか……。僕はそこまで落ち込んでいなかった。どうせダメなものはダメなのだ。ならいっそ、散った方がいい。生け込まれた花を見て僕はそう思った。
「……で、君はどうしたいの？」
考えていない内容だった。もちろん付き合いたい、という気持ちがあるが、何も知らない前提で来ているのだから、そういうのはおかしい。
「お友達に、なってくれませんか？」僕は真剣に思いが伝わるようにいった。「あなたと仲良くなりたいのです、ダメでしょうか？」
「ダメじゃないけど……」彼女は困ったような顔を見せる。「私といても退屈よ。私、今まで付き合ったことなんてないから」
「え？」
僕は口を大きく開けたままいった。こんな美人が人と付き合ったことがないなんて、なんの冗談だろう。背の高い花屋の男性が実はオカマで自分でバーを開いているといった方がまだ面白い。
「お友達ならまだいいけど、それ以上先をみないっていうのなら、いいわ」
彼女もまた真剣な瞳でこちらを見る。僕は手にしていたボトルを置いた彼女に失礼だと思ったからだ。
「それで構いません。でも……僕はあなたのことが好きなので、連絡先を教えて貰ったりとかは……」
「もちろんいいわ。じゃないとお友達になれないじゃない」
彼女は再び八重歯を見せた。薄い唇にその小さい牙はやはり卑怯だ。
今日の出来事を一生忘れることはないだろう、と僕は思った。 もちろん今では逆のことを考えてしまっているのだけど。
次の金曜日から、僕はいつもより仕事に３０分早く出るようになった。彼女も同様にいつもより早く店に来てくれる。今まではきちんとオープンの文字を出していたが、今ではクローズの時間を長くしている。もちろん彼女と会っている時間を誰にも邪魔されたくないからだ。
僕達は、週に一度会い、お互いの気持ちを確かめていった。会えない日は連絡を取り合い、お互いの趣味や価値観、好きなものなど話していった。当たり前だが、彼女の価値観と僕の価値観は驚くほど逆でお互いにいい刺激になった。僕達は知ることで、お互いの心に開いた芽に水を掛け合うようにすくすくと育てていった。
その芽は葉を生やし、やがて立派な茎を伸ばしていった。僕は前より彼女を好きになったし、彼女もまた僕の存在を認めてくれるようになった。
大学で会っても、やはり話し掛けなかった。彼女はそこに触れることを極端に嫌がったからだ。
それでも僕は満足していた。彼女は友達の前では関西弁を使わないからだ。彼女は関西の生まれであることをずっと黙っていた。僕の父親が大阪の天王寺に住んでいたというと、彼女はそれに反応し、彼女の秘密を見せてくれるようになったのだ。
お互いがきちんと納得して成長していけば、乗り越えられる壁だと、その時は本気で思っていた。
そして季節は秋を終えて冬を越し、春に入った。
お互いが友達と認識して半年が経ち、桜の季節が見頃を向かえるようになり、僕達は正式に付き合っていた。
僕も彼女もお互いのことを知り尽くし、それだけで飽き足らずに彼女がバイトが終わった後、僕の店に飲みに来てくれるのようになった。
「そうなんよ、うちは薄味のうどんが好きやんか、それがあそこの店ではさ……」
今では彼女が喋り、僕がそれに答える形になっている。
あれだけ奥手だった彼女が自分の身の上話をしてくれていることに僕は軽く退屈を覚えるまでになってきている。
もちろん彼女に対しては好きだという感情は変わらない。それは同じ枝につく葉のように、形は違っても目的は変わらないのと同じだった。
僕達の芽は立派な枝を生やし、花をつけていた。その花はまだ咲いていなくて蕾のように固いけれども、順調に愛を育んでいた結晶だった。
彼女が店に遊びに来た時、僕はバイトが終わると同時に彼女を家に送る。彼女は寮に住んでいるため、途中まででお別れになってしまうがそれでもよかった。もちろん今でも大学内では会ってない、むしろそれが僕の気持ちに新鮮さを与えてくれる。
それが今日みたいな雨の日なら格別だ。
「ねえ、今日は泊めてくれへん？」
彼女は笑顔のまま僕の背中に寄りかかった。
「お酒を飲んだまま一人で寝るのはなんか怖いんよ。ねえ、お願い」
彼女の甘えた声にも理性を保てる。半年前では彼女の瞳を見ただけで動かなくなっていたのにだ。
「いいよ、そのかわりベッドは一つしかないけど」
「もちろん、やけ泊めて欲しいんよ。めっちゃ嬉しい」
彼女の誘惑に抗えない。抗う必要もないし、彼女をこれからも受け入れていくつもりだ。
なのにどうして僕は彼女を疑っているのだろう。
きっかけは大学内での出来事だ。彼女はやっぱり大学でカチューシャを外す。彼女には女友達しかいないが、その友達と僕は話したことがない。僕では役不足なのだろうか。
彼女はどうして僕の存在をここだけで留めておくのだろう。
家に帰り、冷蔵庫を開ける。僕達は一つのベッドで一つの缶ビールを飲み、一つの布団を共有する。
彼女のカチューシャを外す。彼女は魔法が解けたように恥じらい、僕の胸の中で猫のようにじゃれつく。僕はそのまま彼女を受け入れる。お互いに根を絡ませ共存するようにゆっくりと……。
「好き」
彼女のたった一言で自分の中にある蕾が咲き誇る。けどここだけだ。僕の花は夜行性で、朝には閉じている。
「ずっと一緒におってね。約束よ」
懇願するようにいう彼女に僕は戸惑いを覚える。声と心の言葉が食い違っているように見えるからだ。
それでも僕は頷くしかない。僕の心は彼女のために存在しているのだから。
「ねえ、ここからでも桜の花が見えるんやね」彼女は懐かしむようにいった。「私、桜の花がめっちゃ好きやねん。この間もお客さんがさ……」
花が好きだという彼女、その心は本物だろう。彼女には嘘をつく時、目を伏せる癖があるからだ。
彼女を強く抱きしめる。もっと自分に近づいて欲しい、もっと素直になって欲しい、全てを話して欲しい。
たくさんの思いを込めて僕は彼女を抱きしめる。彼女に僕の養分を届けるように熱く、きつく、激しく。
彼女も話すことをやめて優しく、子供を抱くように、手のひらでそっと背中を撫でてくれる。
僕は彼女に認められたい。世界中で、僕のことを一番に思って欲しい。僕はあなたのことしか考えていないのに、卑怯だ。
僕は桜の花びらが雨で散る前に彼女のことを強く抱いた。
彼女と別れ、一年の月日が経った。
僕が彼女を求めてしまったからだ。彼女にはもう一人の恋人がいた。その相手は僕が女性だと思って安心していた彼女の友人だ。彼女はどちらも平等に愛してくれていた。男女関係なく、桜のように雌雄の株を同時に愛してくれていた。
彼女は赤いカチューシャをしている時だけに、僕を愛すと決めていたのだ。もちろん今の彼女はカチューシャをしていない。それは長かった黒髪を短く切った理由だけではないだろう。
雨の中、僕は去年と同じ桜を見た。今頃君も同じようにこの桜を見ているのだろうか。僕と関わったことを思い出して懐かしむように桜の花を見てくれるだろうか。
「ごめんね、本当にごめんね」
関西弁ではなく標準語で泣きながら謝る彼女に、僕の心は小さく萎んでいった。椿のようにばっさりと花ごと落としてくれたら、どれだけ楽だっただろうか。やはり君は残酷だ。
今年の桜も満開だ、今日のように雨であればほとんどの花びらが散るだろう。
僕の心も花びらが散るように君を忘れられたらいいのに。
でもそれはできない。君が種をくれて根を生やし、葉を育て、茎をはぐくみ、枝をつけ、花を咲かせたのだから。
この蕾は一生、枯れることはない。
君のように僕の心を染め上げてくれるような、真っ赤な花を持つ相手に出会わなければ――。
ライブバージョンしかなかったので、こちらで。普通のものより早いです。
タイトルへ→http://
同じお題で『別の作者様』が書いた作品です。よければお読み下さい。
�．織ぅ肇襦悄攵己埔�説】Eine kleine Kirsche』 作者：藍沢篠様
http://
ひとの「こころの声」が聞こえる少年が、小さな出逢いから勇気に目覚めてゆく話です。
それがあなたに対して思った最後の一言だった。
出会いの種は僕がバーでバイトしていた時のことだ。僕の勤めていた店では一週間に一度、金曜日に生け込まれた花が届く。彼女は大きな鉄でできた器を両手で抱えながらバーカウンターに備えられた麻布の包装の中に押し込む。それが彼女には苦手のようで、器を持ったまま体が不安定になり何度も着地に失敗していた。だから必ず僕が麻布の包装を固定して彼女と呼吸を合わせることが週に一度の決まりだった。
僕は彼女の名前を知らないし、彼女も僕の名前を知らない。そのやりとりだけで僕達はコミュニケーションを取れるようになった。一度で上手くいけばハイタッチ、二回までだと手を振るだけ、三回を過ぎるとお互いに気難しい顔をして笑い合う。
彼女の赤いカチューシャを見る度に、僕の心に植えられた種はすくすくと育っていった。
それが半年以上続いた後、僕達は大学の食堂で偶然出会ってしまった。彼女はバイトの時と同様、カチューシャをしていたのだ。赤いカチューシャが彼女特有の味を出していて、一目で彼女だと気づいた。
彼女は友人と話しており、僕の視線に気づきながらも避けているようだった。僕も僕で友人がいるのだが、それよりも彼女の動向が気になった。
彼女は大学では自分のオーラを消しているように見えた。友人と話す時も、相手に話をさせるように話題を振っていたし、聞き上手な人がする相槌にも磨きが掛かっていた。僕の中での興味は彼女が何学部かということだった。
「おい、どこ見てんだよ」友人の一声で僕は彼がいることを思い出す。
僕は恥ずかしげもなく彼女の方を指差す。
「え、もしかしてお前、好きなの？」
「いや、バイト先で会ったことがある」
僕の学科は農学部だった。応用生物学科といって農学部の中でも広い範囲で活動をするのだが、彼女を見たことがなかった。
この大学にあるものは他に工学部と教育学部だ。比率から考えれば、きっと教育学部だろう。
「ふーん、お前、ああいうのがタイプなんだ。気が強そうだな」
「ほっとけ」
友人の話に相槌を打ち、彼女の身の回りの環境を判断して推理する。友人と共通のものがテーブルの上にある、楽譜だ。彼女はきっと教育学部の中でも音楽科なのだろう。
「やめとけよ、あそこに座っているお嬢さん達、皆、金持ちだから」
そうなのだろう、と思った。姿勢のよさ、話し方、笑い方、全てに品を備えていて僕が扱っていいような代物ではないということはわかっている。
「まあ、見る分には構わないさ」
僕は自分に言い含めるようにいった。
秋の季節にぴったりな朱色のロングスカートに僕は目を奪われる。黒のタートルネックから出ている細い首、薄いチェックのグレイのカーディガンが彼女の細い体を引き立たせる。その組み合わせは卑怯だろう、どうぞ見て下さいといわんばかりのコーディネートだ。
彼女は他人行儀な笑い方をしながら、友人と席を離れた。これ以上、視線で追うことはできない。どうせまたバイト先で会えるのだ。深追いはしないでおこう。
そう思ったのが僕の恋の始まりだった。この心に生えてある蕾を、今でも捨てることができないでいる。
三日後の金曜日、僕はバイト先で彼女が来るのを待った。グラスを拭いてもボトルを拭いても、一向に時間が経たない。彼女は客が入る前にだいたい来るので、後１５分以内には来るはずだ。それでも彼女は来ない。
カランと扉が開く音がした。彼女だ、僕は体を前のめりにしドアの行方を追った。そこには大きな器を持った男の人が立っていた。
…今日は彼女じゃないのか。
普段でも彼女じゃないことは度々にあった。それでも今日はなぜか彼女がくる、という謎の確信を持っていた。そうでなければ自分に不都合だからだ。
彼に合わせて麻布の包装を固定する。もちろん彼ほどの大柄な男であれば必要ないのだが、習慣になってしまったため体が勝手に動いてしまう。
「彼女は店にいますか？」
僕は思ってもいなかったのに言葉を発していた。
「ん？ああ、今日は店で花束を作ってる」花屋の男は的確にアドバイスをくれた。「悪いな、彼女の方がよかったか？」
「いえ、別に……」
僕は小さく呟いた。彼に自分の気持ちを述べても仕方がない。不運だったと思って諦めよう。
「伝えることは？」
「特にないです」
男は無言で立ち去ろうとした。その背中に僕は何かをいわなければならない衝動に駆られ、一言だけ口走ってしまった。
「カチューシャ、いいですねと伝えて下さい」
男に聞こえたのかどうかは定かではなかったが、僕の胸に突っかかった気持ちは半分ほど無くなっていた。
次の日、僕は食堂で一人でご飯を食べることにした。教育学部の連中がよく座る場所でだ。食堂に指定席などない、こっちから踏み込むことだってできるはずだ。
彼女を一目見たかった。一目見て、彼女がきちんと存在していることを確認したかった。一週間に一度会えないだけで僕の心は淀んだ水のように腐っていく気がした。
食器を載せるための大量のバトンを眺めていると、一人だけ目についた。確か彼女と一緒にいた友人だ。彼女がいるということは彼女も――。
僕の目はその辺りに集中した。彼女の手がかりを手にいれたい、どうしても君に話したいことがある。
彼女を見つけた、そう思った僕の気持ちは燃え上がってたが、一瞬にして鎮火された。
彼女は赤いカチューシャを外していたのだ。
次の金曜日、僕は憂鬱でバイトを休みたかったが、もちろん休めるわけもなくグラスを拭いていた。カランと音が鳴ったが、きっと背の高い男性だろうと思い、僕はグラスを拭き続けた。
しかし僕の予想は外れた。彼女が重たい器を抱えながら入ってきたのだ。
僕は反応に戸惑った。手を伸ばせば、麻布に手が届く。だが予期していなかったため、手は泡だらけだ。この手で固定すると滑るかもしれない。
すでに彼女は自分の視界まで迫っている。ここは黙っておけばいいのだろうか。彼女だって自分の仕事なのだ、一人でできるし僕が手伝わなくても――。
「ちょっと待って下さい」僕は泡だらけの手でいった。「少しだけ待って」
急いで手を洗うが布巾がない、僕は掛けてあるエプロンで手を拭く。早くしないと彼女の手が疲れてしまう。
「いいですよ、そんなに慌てないで」
彼女はそういって笑った。その頭には赤いカチューシャが付けられていた。
僕はほっと息を漏らした。僕の中にある芽は再び息を吹き返し、根を生やしていけそうだった。
次の金曜日、僕はバイトに早く出た。彼女が来てもいいように自分の仕事を終わらせておきたかったからだ。どうか彼女が来ますように。僕の願いはその一点だった。
大学で彼女を見掛けても、話しかけないでいた。なぜかはわからないが、彼女は素性を隠しているような素振りを見せていた。教育学部の音楽科は高嶺の花だ。きっと身の振る舞い方があり、僕が入っていい領域ではないのだろう。
からんと音がする。鉄の器が扉の把手口とぶつかり鈍い音がする。間違いなく花屋だ。
「こんにちは」彼女の声が店に響く。
「こんにちは」僕もなるべく優しい声を出そうとする。警戒心を解いて欲しいからだ。
彼女は僕の顔を見て、微笑んだ。その笑顔にもう引き返せない、と確信した。
僕はもう完全に彼女の虜だ。どうなってもこの恋は始まってしまっている。
「いつもすいません」彼女は微笑みながら僕が持った麻布に器を嵌め込む。「あら、今日はグラスはもう洗ったの？」
「ええ、あなたと少しでも話したくて」
僕は正直に思いを伝えた。一週間という待機時間が僕の恋心を加速させていた。
「そう、じゃあ少しだけ話していこうかな」
彼女はそういってバーカウンターに座った。
時計を見ると、いつもより１５分ほど早かった。彼女もまた時間を早めていてくれたのだと気づく。
「カチューシャお似合いですね」僕は手持ち無沙汰だったため、意味もなくボトルを拭いた。そうでもしなければ面と向かって話せないからだ。
「そう？ありがとう。嬉しい」
彼女は歯を見せて笑った。少しだけ八重歯が見えてどきりとする。
「どうして大学でカチューシャを外しているのですか？」
僕はさらに彼女に踏み込んだ。触れてはならない領域に足をいれなければ、彼女との続きは見れない。
「ん？やっぱり気づいてた？」
「気づきますよ。だって僕の時間は今、この一瞬しか動いていないのですから」
自分でも理解できていない言葉を発してしまう。愛の告白よりもプロポーズの方が敷居が低いように、僕は淡々と思った過激な言葉を口にする。
「正直にいって後悔しています、背の高い男性にいったこと」
カチューシャが似合うといった言葉を訂正したかった。いわなければ僕は大学で彼女を容易に探すことができたし、彼女の秘密を独り占めしているような感覚を味わうことができた。
「私は何も聞いていないけど……何かいったの？」彼女は目を伏せながら答えた。
「あなたのカチューシャが好きだということをいいました」僕は彼女の目を見ていった。もう後戻りはできないし、するつもりもない。「好きなんです、あなたが。あなたのことを何も知らないけど、知りたくてしょうがないんです」
「そう……」彼女は深く目を伏せる。
やはりダメだったか……。僕はそこまで落ち込んでいなかった。どうせダメなものはダメなのだ。ならいっそ、散った方がいい。生け込まれた花を見て僕はそう思った。
「……で、君はどうしたいの？」
考えていない内容だった。もちろん付き合いたい、という気持ちがあるが、何も知らない前提で来ているのだから、そういうのはおかしい。
「お友達に、なってくれませんか？」僕は真剣に思いが伝わるようにいった。「あなたと仲良くなりたいのです、ダメでしょうか？」
「ダメじゃないけど……」彼女は困ったような顔を見せる。「私といても退屈よ。私、今まで付き合ったことなんてないから」
「え？」
僕は口を大きく開けたままいった。こんな美人が人と付き合ったことがないなんて、なんの冗談だろう。背の高い花屋の男性が実はオカマで自分でバーを開いているといった方がまだ面白い。
「お友達ならまだいいけど、それ以上先をみないっていうのなら、いいわ」
彼女もまた真剣な瞳でこちらを見る。僕は手にしていたボトルを置いた彼女に失礼だと思ったからだ。
「それで構いません。でも……僕はあなたのことが好きなので、連絡先を教えて貰ったりとかは……」
「もちろんいいわ。じゃないとお友達になれないじゃない」
彼女は再び八重歯を見せた。薄い唇にその小さい牙はやはり卑怯だ。
今日の出来事を一生忘れることはないだろう、と僕は思った。 もちろん今では逆のことを考えてしまっているのだけど。
次の金曜日から、僕はいつもより仕事に３０分早く出るようになった。彼女も同様にいつもより早く店に来てくれる。今まではきちんとオープンの文字を出していたが、今ではクローズの時間を長くしている。もちろん彼女と会っている時間を誰にも邪魔されたくないからだ。
僕達は、週に一度会い、お互いの気持ちを確かめていった。会えない日は連絡を取り合い、お互いの趣味や価値観、好きなものなど話していった。当たり前だが、彼女の価値観と僕の価値観は驚くほど逆でお互いにいい刺激になった。僕達は知ることで、お互いの心に開いた芽に水を掛け合うようにすくすくと育てていった。
その芽は葉を生やし、やがて立派な茎を伸ばしていった。僕は前より彼女を好きになったし、彼女もまた僕の存在を認めてくれるようになった。
大学で会っても、やはり話し掛けなかった。彼女はそこに触れることを極端に嫌がったからだ。
それでも僕は満足していた。彼女は友達の前では関西弁を使わないからだ。彼女は関西の生まれであることをずっと黙っていた。僕の父親が大阪の天王寺に住んでいたというと、彼女はそれに反応し、彼女の秘密を見せてくれるようになったのだ。
お互いがきちんと納得して成長していけば、乗り越えられる壁だと、その時は本気で思っていた。
そして季節は秋を終えて冬を越し、春に入った。
お互いが友達と認識して半年が経ち、桜の季節が見頃を向かえるようになり、僕達は正式に付き合っていた。
僕も彼女もお互いのことを知り尽くし、それだけで飽き足らずに彼女がバイトが終わった後、僕の店に飲みに来てくれるのようになった。
「そうなんよ、うちは薄味のうどんが好きやんか、それがあそこの店ではさ……」
今では彼女が喋り、僕がそれに答える形になっている。
あれだけ奥手だった彼女が自分の身の上話をしてくれていることに僕は軽く退屈を覚えるまでになってきている。
もちろん彼女に対しては好きだという感情は変わらない。それは同じ枝につく葉のように、形は違っても目的は変わらないのと同じだった。
僕達の芽は立派な枝を生やし、花をつけていた。その花はまだ咲いていなくて蕾のように固いけれども、順調に愛を育んでいた結晶だった。
彼女が店に遊びに来た時、僕はバイトが終わると同時に彼女を家に送る。彼女は寮に住んでいるため、途中まででお別れになってしまうがそれでもよかった。もちろん今でも大学内では会ってない、むしろそれが僕の気持ちに新鮮さを与えてくれる。
それが今日みたいな雨の日なら格別だ。
「ねえ、今日は泊めてくれへん？」
彼女は笑顔のまま僕の背中に寄りかかった。
「お酒を飲んだまま一人で寝るのはなんか怖いんよ。ねえ、お願い」
彼女の甘えた声にも理性を保てる。半年前では彼女の瞳を見ただけで動かなくなっていたのにだ。
「いいよ、そのかわりベッドは一つしかないけど」
「もちろん、やけ泊めて欲しいんよ。めっちゃ嬉しい」
彼女の誘惑に抗えない。抗う必要もないし、彼女をこれからも受け入れていくつもりだ。
なのにどうして僕は彼女を疑っているのだろう。
きっかけは大学内での出来事だ。彼女はやっぱり大学でカチューシャを外す。彼女には女友達しかいないが、その友達と僕は話したことがない。僕では役不足なのだろうか。
彼女はどうして僕の存在をここだけで留めておくのだろう。
家に帰り、冷蔵庫を開ける。僕達は一つのベッドで一つの缶ビールを飲み、一つの布団を共有する。
彼女のカチューシャを外す。彼女は魔法が解けたように恥じらい、僕の胸の中で猫のようにじゃれつく。僕はそのまま彼女を受け入れる。お互いに根を絡ませ共存するようにゆっくりと……。
「好き」
彼女のたった一言で自分の中にある蕾が咲き誇る。けどここだけだ。僕の花は夜行性で、朝には閉じている。
「ずっと一緒におってね。約束よ」
懇願するようにいう彼女に僕は戸惑いを覚える。声と心の言葉が食い違っているように見えるからだ。
それでも僕は頷くしかない。僕の心は彼女のために存在しているのだから。
「ねえ、ここからでも桜の花が見えるんやね」彼女は懐かしむようにいった。「私、桜の花がめっちゃ好きやねん。この間もお客さんがさ……」
花が好きだという彼女、その心は本物だろう。彼女には嘘をつく時、目を伏せる癖があるからだ。
彼女を強く抱きしめる。もっと自分に近づいて欲しい、もっと素直になって欲しい、全てを話して欲しい。
たくさんの思いを込めて僕は彼女を抱きしめる。彼女に僕の養分を届けるように熱く、きつく、激しく。
彼女も話すことをやめて優しく、子供を抱くように、手のひらでそっと背中を撫でてくれる。
僕は彼女に認められたい。世界中で、僕のことを一番に思って欲しい。僕はあなたのことしか考えていないのに、卑怯だ。
僕は桜の花びらが雨で散る前に彼女のことを強く抱いた。
彼女と別れ、一年の月日が経った。
僕が彼女を求めてしまったからだ。彼女にはもう一人の恋人がいた。その相手は僕が女性だと思って安心していた彼女の友人だ。彼女はどちらも平等に愛してくれていた。男女関係なく、桜のように雌雄の株を同時に愛してくれていた。
彼女は赤いカチューシャをしている時だけに、僕を愛すと決めていたのだ。もちろん今の彼女はカチューシャをしていない。それは長かった黒髪を短く切った理由だけではないだろう。
雨の中、僕は去年と同じ桜を見た。今頃君も同じようにこの桜を見ているのだろうか。僕と関わったことを思い出して懐かしむように桜の花を見てくれるだろうか。
「ごめんね、本当にごめんね」
関西弁ではなく標準語で泣きながら謝る彼女に、僕の心は小さく萎んでいった。椿のようにばっさりと花ごと落としてくれたら、どれだけ楽だっただろうか。やはり君は残酷だ。
今年の桜も満開だ、今日のように雨であればほとんどの花びらが散るだろう。
僕の心も花びらが散るように君を忘れられたらいいのに。
でもそれはできない。君が種をくれて根を生やし、葉を育て、茎をはぐくみ、枝をつけ、花を咲かせたのだから。
この蕾は一生、枯れることはない。
君のように僕の心を染め上げてくれるような、真っ赤な花を持つ相手に出会わなければ――。
ライブバージョンしかなかったので、こちらで。普通のものより早いです。
タイトルへ→http://
同じお題で『別の作者様』が書いた作品です。よければお読み下さい。
�．織ぅ肇襦悄攵己埔�説】Eine kleine Kirsche』 作者：藍沢篠様
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ひとの「こころの声」が聞こえる少年が、小さな出逢いから勇気に目覚めてゆく話です。
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