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2016年02月24日12:39

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暗渠芝居「椋鳥の巣の下を」改稿のお知らせ。

最新作に大きな不備が見つかりまして、改稿か破棄かの選択を迫られております。16年がかりで完結させたつもりだったんですが…。

いちおう改稿案です。1・2場の主役を「差鍋マキ」から「おみなえし」に変更し、差鍋マキ主役の第3場を加筆する。つまり2場までに語られた仮説をおみなえしの妄想と喝破したマキが再度フィールド調査を行い3場で訂正してゆく、という構成に変えます。カルトなことはおみなえし、それに科学的に応えていくのがマキ、という原構成をちゃんと残したいと思います。

不備については以下の通り。

現行の本編では姥ヶ谷落としの上下分断について「1899年の東武鉄道敷設にともない和戸駅前干拓のため下部姥ヶ谷落としにそそいでいた備前堀川を400メートル掘り抜いて大落古利根川に付け替えたために上部姥ヶ谷落としの河口は備前堀川との合流地点まで遡上した。そのお陰で下部流域で泥沼に耐えていた住民が貧困から解放された」という仮説になっています。だがこの仮説にはいくつかの難点があり、

1.資料で証明されてない。
2.備前堀川の水面標高は下部姥ヶ谷落とし起点のそれより約3メートル低く、かつて前者から後者へと自然に流れていたのだとすると普請の際に少なくとも400メートル×3メートルの掘り下げの必要があったのだがそこまでの大工事をする必然があったのか。
3.備前堀川の河床に現存する上下姥ヶ谷落としを渡すかに見えるコンクリの基礎はなんなのか。

などに充分に答えられていないと考えられます。

不備を補う新説は以下の通り。

1.備前堀川河床に見えているコンクリ基礎はかつて上下姥ヶ谷落としが連結するために打たれた掛け樋施設の名残なのではないか、すなわち備前堀川と姥ヶ谷落としは水系的に交わっていなかったのではないか。
2.1899以前(おそらく伊奈忠次時代)から備前堀川と大落古利根川の合流地点は現行の通りだったのではないか。
3.上部姥ヶ谷落としの河口標高が下部起点より3メートルほど低いのは宮代台団地造成に当たり上部の排水路化工事が行われたためではないか(それは大いにありそう)。

ということです。これによって得られる認識は以下の通り。

1.掛け樋は下部姥ヶ谷落とし流域の水田への供給のために設けられた可能性がある。つまり農業水系として万年堰取水口から下部姥ヶ谷落とし河口までは一筋の流れでありかつ(排水路である)備前堀川とは無関係であったという仮説。
2.備前前堀川→万年堰導水路→上下姥ヶ谷落としという農業水系が独立していたのなら、下部流域民が大いに恒常的(施策的)水害に悩んでいたという仮説は怪しくなってくる。つまり1899よりもずっと以前(忠次時代)に下部流域の干拓は済んでいた、ということになる。
3.とすると武蔵堤は吉宗期よりずっと遡って、むしろ忠次によって不備を訂正された施設である可能性も出てくる。下部流域の干拓時期を検討せねばならない。

以上のために最低限必要な資料は以下の通り。

1.戦後、1960年頃までの和戸駅周辺の国土地理院地勢図。掛け樋が実在したかどうかは宮代台普請(1960年代半ば)より以前の地図による必要がある。
2.むさし堤団地ないし武蔵堤の起源に関しての杉戸町資料。高野島および砂河原という古地名からして起源が古いか、あるいは繰り返し改築されてきた可能性に当たる必要がある。

ざっと言いますと踏査でできることはもう大概しました。あとは紙の資料に当たらないと全貌は見えてこないだろう、ということです。
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