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2016年01月01日17:17

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社会教育者たること

教育には三つの場がある。

それらは

1.家庭教育の場
2.学校教育の場
3.社会教育(生涯学習)の場

だ。

今では
教育と言えば
「学校教育」だけを指すことが多いが
学校教育の場では
国家の教育方針を逸脱する事を
教える事は許されない。

けれども
国家の教育方針を「外れる」ことの中には
人間の教育にとって大事な側面が
多々存在している。

これらは
就学前の「家庭」教育や
学校を出た後の「社会」が
我々に「教えて」くれる事柄だ。

人間形成は
「学校」という教育の場で得た「知識」だけで
成り立っているのではなく

学校「以前」の「家庭」からの「影響」や
(家庭環境からの影響は、
 学校に通っている時も
 学校を出てからも
 尚続く教育環境。)
学校「以後」の「社会」からの「影響」で
成り立っている。

「家庭」での教育の
「責任者」は
「両親や祖父母等」である。

「学校」での教育の
「責任者」は
「学校教師」である。

では
学校を出てからの
社会に於ける教育の
「責任者」は
誰であろうか。

それは
「会社」や「組織」等、「職場」の「教育係(上司)」
であったり
「各人の住環境に住む人々」
であったり
するのかもしれないけれども

会社の「上司」や
近所の「住人」は
会社の仕事上の「ルール」を教えてくれるだけであったり
近所付き合いの「常識」を求めるだけであったりして

人間としての「自己形成」に
直接役に立つことを教えてくれるわけではない。

私は
「学校」教育では
文科省の方針の枠内でしか伝えられない為に
「本当は必要不可欠な事なのだけれども
 学校では伝える事が出来ない」
にもかかわらず
「大切な内容」を
生涯賭けて学びたいという意志を持つ人々に
その「是非とも学ぶべき核心」を
伝え続ける仕事を
してみたい。

井上円了は
社会教育に賭けた人であった。
(対照的なのは
 同じ東京大学文学部哲学科を卒業した先輩の井上哲次郎。
 井上哲次郎は東京帝国大学の教授となり
 学校教育の大御所の道を進んだ。
 井上哲次郎に対して井上円了は
 学校教育としては
 私学の哲学館(現在の東洋大学)を創設したが
 文部省の圧力を受け学校教育の限界を思い知らされた。
 その後は家庭教育や社会教育に活路を見出した。)

生涯賭けて
人として大切な事を
学んでゆきたいという願望と意志は
京都に住む人々は特に
強いように感じる。
(それは2005年11月に大阪から京都に
 引っ越してきて京都に10年実際に住んでみた
 実感だ。)

なので
京都でなら
「生涯学習」塾としての
「京都哲学堂」
(「哲学堂」とは井上円了が
 学校教育を行う「哲学館」と区別した
 社会教育(生涯学習)の場)
は成立するのではないかと
思うのだ。

また
「学校」教育の場では
一部のエリートしか教授に成れないし
(これは構造的な問題で
 「教授」の「ポスト」が
 そもそも少ない為に
 博士号を持っていても
 大学教授の職に就ける人は限られている)
また
才能だけでは教授に成れない。
(政治的な手腕が必要だし、
 事務的な才能も必要で、ただ研究しか出来ない人は
 大学教授には向いていない)

私の場合
年齢が既に常識的な許容範囲を
極端に逸脱している(56歳で未だ「現役」な)ので
大学教授に成れる可能性は
「皆無」と考えても
あながち間違った判断ではない。

また
通常の大学教授に求められる
「処理能力」を
自閉症スペクトラム障害(高機能広汎性障害)の
可能性がある私が
持っているとは考え難いので
研究者として「適性無し」と判断しても
これまた間違った判断とは言えない。

そうであるなら
私が
それでも猶
社会に対して
何か貢献出来る「場所」が
存在しているとするならば

それは
「哲学を生涯賭けて学びたい」
という人々に
哲学の真髄を
学校教育では教わらない範囲にまで広げて
伝えて行くことで
奉仕することではないだろうか。

それは基本的な姿勢としては
「奉仕活動」であるために
お金にならないかもしれないけれども
自分が「社会人」として
「自立」する「道」あるいは「場所」としては
適した道(場所)なのかもしれない。

一度
「社会教育」を担当する
大学教育者の応募に応えたことがあったが
その時は採用されなかった。

しかし
「社会教育」を
「学校教育」で行う事は
考えてみれば
矛盾している。

「社会教育(生涯学習)」は
生涯賭けて
一人ひとりが
「人として生まれた限りは
 是非とも学んでおくべき事柄」を
自律的に学習してゆくサポートを
「社会教育者」が
為すことであるべきで

「学校教育」という
「枠(形式=形相)」を伝達するだけの機能しか持たない
「場所」では
「本当に知りたい」ことを「修得する」という「目的」は
達成されないと思う。

なので私は
(実際に要望も受けているので)
「哲学を学びたい」
という真摯な気持ちに応えて
「学校では教えてもらえない
 本物の哲学」
を伝えられる
社会教育者
を目指してみたいと思うのだ。

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最終更新
平成28(2016)年1月1日 午後7時37分
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