mixiユーザー(id:1057202)

2015年12月10日20:48

361 view

バクタ・デヴォーティとなる理由

聖火も終了してしまったこともあって、この数日は「ただぼんやりと過ごす」以外にやることもない・・・滞在も残り1週間となって、気分はすっかり帰国モードに入っていて、

「どこで何を食うか?」をあれこれ楽しみに考えたり、「スーパー銭湯」での入浴を心待ちにイメージしたり、来年実施予定の「美代ちゃん」関連作業?をリストアップしたり・・の日々である。


どの位の期間アルナーチャラに滞在する(できる)のか?・・というのは、個々人の資質とかカルマとか運命とか御神意によって全く状況が異なるわけで、私の場合はおおよそ数ヶ月間という単位をほぼ毎年当地に滞在し、かれこれ足かけ20年になりなんとしている。


でまあ、実際問題として「数ヶ月」というのはこれで結構「モチベーションを維持する」のが大変なのざんすよん。

・・・こう言っては身もふたもないがやはり生活が飽きてくるし、次第に「インド的なあれこれ」がうんざりしてくるのであるよ。(「定住者」の方々には全く頭が下がる次第ざんす)


どれほどここが最大級の聖地であっても、滞在期間が長くなってくるとそこでの生活は「非日常的なスピリチュアル・リトリートの場」としての機能を失い、次第に嫌でも「日常生活」化していく・・・のである。

大体「日常生活」なるものは「面白くも何ともない」のが定番なのである・・・当地でも「人間関係」の絡みはあるし、「立場」的に行動の制約というものも生じてくる。

単に「ツーリスト」としての自由を享受しているわけにはいかなくなるのである。


かくしてあれこれの「インド的なるもの」に対する「ウンザリーニ症候群」が亢進してくると、「早く日本へ帰りたいよなあ・・」と感じるようになってくるのですなあ。

しかしこれで日本に戻って数ヶ月経つと、これまた日常生活にうんざりしてきて「さあて、そろそろインドに出かけたいよなあ・・」となるのざんすね。

日本の生活にはあれこれの「日本的なるもの(インドとは正反対の様相ですな)」に対する「ウンザリーニ症候群」が発症してくるのだ。

・・結局その無限反復で日本とインドを毎年行き来している・・のが実状なのである(笑)


分かりやすい例で言えば、真夏の炎天猛暑にあっては「冬の寒さ」が大層懐かしく感じられるのだが、いざ厳冬酷寒に晒されると「夏の暑さ」に恋い焦がれる・・・ようなものなのざんすよ。



さてさて、ラマナのお言葉の中に、

「海に向かってコップ一つしか差し出さなかったら、汲める海水はコップ一杯でありそれについて海に文句を言うわけにはいくまい」

・・・というのがある。

さてそれではいかなる容器を差し出せば良いのか?

実はここで重要なのは「容器」の規模ではないわけざんすね・・・どれほど大容量のタンクを準備できたとて、そこで汲める海水はそのタンク一杯でしかない・・からであり、それに対する不満は常に存在するのである。

・・ではどうすればよいのか?

実は簡単な話で「容器を差し出す」のではなく、自分自身が「海へ飛び込んでしまう」事なのですな・・・これが「バクティ」の要でもあるだろう。


そしてもう一つのラマナのお言葉、

「あなたは首まで水に浸かりながら、『のどが渇いた、水が欲しい!』と言っているようなものだ」


実は海に飛び込むだけではなく、「潜る」ことが肝心なのでもある。

(別のお言葉に「真我の探求には水中で溺れている人が空気を求めるのと同じような差し迫った真摯さが必要である」とあるが、これは例えのフェイズが異なる・・ことは言うまでもあるまい)



実は「ウンザリーニ症候群」というのは、常に(それが「日常生活」であろうとも)臨在と恩寵の中に生かされ在るのに、エゴはそこに気がつかない(つきたくない)・・・という状態でもあるのざんすねえ。


ではどうすればよいのか?

・・実はこれには「こうすればよい!」というような方法は存在しないのだ。

それどころか「あれこれ試みて足掻く」事自体が、実はエゴの営為に他ならない・・のですなあ、それは同時に「こうすれば(何らかの方法で)恩寵と臨在が確かに感得できる!」という迷妄と質的に同じであろう。


かくして「ウンザリーニ症候群」の中にあっては、ただそれを淡々と通過していく・・・だけのことなのだ。

誠に幸いなことに、どれだけうんざりしていてもアシュラムの食事は美味しいし、ギリプラダクシナに出かければ肉体生理的な「鬱屈感」は取りあえずは消散するからな。


そしてどんなに「ウンザリーニ症候群」が亢進して「やる気の正弦曲線」が最低状態になろうとも、不意にかの比類無き臨在と恩寵がもたらされたりする・・・のは事実である(インドにいようが日本にいようが)。

一度それを骨身に染みて直接体験したら、それが信仰の確信(核心)となり嫌でも?「バクタ」・「デヴォーティ」となってしまうことだろう。


これまたラマナのお言葉に、

「あなたが地獄に落ちるならば、バガヴァンが地獄まで降りて行ってあなたを救いだそう」

とある・・・どこまでも面倒見の良いのがサットグルなのだ。


どんなにブスっぽい表情になっていても「滅多にいない可愛い少女」だった美代ちゃんのごとく?(ウルトラ牽強付会・・笑)

どんなにこちらがグタグタな最低状況であろうとも、ラマナ=アルナーチャラは不変であり、その比類無き臨在と恩寵を遙か太古より「ぐははははは・・・!!!」と沈黙の笑いとして放たれ続けているのである。



・・・かくして私は「もうお前は来なくてよろしい」となるまで、うんざりしつつも日本とこちらを往復し続けることであろうなあ、わははははは・・・・・!!!!!



付記 

アジャシャンティ 「あなたの世界」の終わり(高木悠鼓訳・ナチュラルスピリット刊) 

第2章 真正なる目覚めーそして、そのあとで起こりえる方向感覚の喪失 より抜粋


>>>>>>


目覚めの道は、ポジティブな感情についてではありません。反対に悟りとは、楽でポジティブなことではまったくないかもしれません。幻想をつぶされるのは、楽ではありません。長年いだいていた観点を手放すのは楽ではありません。自分に大きな苦痛を与えている幻想を見通すことに対してさえ、私たちは非常に大きな抵抗を経験するかもしれないのです。

(略)


現実(リアリティ)から現実(リアリティ)への心からの呼びかけ、目覚めへの呼びかけは、私たちの内部の非常に深い場所から来る呼びかけです。それは気持ちよく感じたいと思う以上に、真実を望む場所から来るものです。

もし私たちの方向性が、単にあらゆる瞬間に気持ちよく感じることであるならば、そのときには私たちは自分自身を騙し続けることでしょう。なぜかと言えば、その瞬間に気分よく感じようとすることが、まさに私たちが自分自身を騙す方法だからです。私たちは自分の騙しが、自分の気分をよくしていると思っています。目覚めるためには、気分よく感じることを常に求める枠組みを壊して、そこから出なければならないのです。

もちろん、私たちは気分よく感じたいものですし、それは人間の経験の一部です。あらゆる人が気分よく感じたいと思っています。私たちにはより多くの快楽と、より少ない苦痛を求める配線が脳に組み込まれています。でも、私たちにはさらに深い衝動があり、それは私が目覚めの衝動として描写するものです。

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する