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2015年11月01日03:07

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「悟る」は、わかれば超単純

世に
「悟り」とか「空」とか
「啓示」とか「神」と
言うけれど

それは
意識(理性=心理)

経験(意志=生理)

ingress(入来)して来て
(つまり意識では為し得ない現象が生起して)
それで
普段は
隔絶されている
理性と
意志との
間に
道が出来る
「瞬間」
のこと。

この「道」は
最初はとてもか弱くて細い道で
通らなければ
いつのまにか
どこにあったのかも
判らなくなってしまうくらいの
微(かす)かな「道」なんだけれども
(あるいは湧き水の出口としてなら
 「針の穴のように小さな穴」なんだが)
何度も通れば
そのうち「大道」になってゆく。
(大きな「穴」に成ってゆく)
つまりしっかりして
いつでも簡単に通れる道へ
成長する。
(或いは、穴の在る場所へ何度も通えば
 その「針の穴」の場所へ
 間違わないですぐに
 辿り着けるようになる。
 この場合は
 穴の大きさは変わらないで
 その穴への「道順(悟りの方法)」を
 忘れないようになる。)

この「道」が
出来る「瞬間」

「悟る」であり
(わざわざ「動詞」で表現するのは
 悟りの現象は動的なリアルであり
 名詞的で静的な概念ではないから)
「啓示」である
(啓示も神が神であることを
 啓き示してくる事実であって
 単なる抽象概念ではない)
わけだけれども

その起き方は
人それぞれで
「こうやれば絶対」
という方法は
断定出来ない。

ただ
瑜伽行や
止観業や
自律性療法が
その契機に
成ることは
十分にありえるだろうけれども

「悟る」も
「啓示」も
それが生起するのを
妨げる要因は
山ほどある
(数多くある
 =例えば貪瞋痴(とんじんち)等の煩悩)
ので
それらの一つひとつが
克服されていないと
出ない。

生理心理現象は
条件が整うのに
やはり
7〜8年から11〜12年かかる。

その間を
ずっと
「修行」し続けられる人が
数少ないから
「悟る」人も
「啓示を受ける」人も
少ないだけのこと。

仮象を離れ
中辺を分別し
(「中辺」とは「中心と辺境」のことで
 「中庸」と「中庸からの逸脱」とを
 「区別(分別)」できるようになることが
 仮象を離れるには大事なことだが
 その「中心」を教えてくれるのが
 理性ではなく
 理性とその背後の意志の双方を包む
 「真の無の場所」で
 それは概念ではなく
 生理心理的現象としての事実体験)
常に「中」を保つ判断の場所に居る
為には
そういう
「悟る」や
「見神(visio beatifica)」の
生理心理現象を
いつでもどこでも
引き出せる「わざ」を
持つことが大事になる。

そういう「わざ」を
今の教育は教えないし
宗教家も
教えられる人が
少なくなってしまった。

井上円了が言うように
学校教育よりも
家庭や社会が果たす教育の役割は
大きい。

学校で習うことだけで
判断を究極に高めることは
限界がある。
宗教の次元を開く学修は
家庭や社会が持たなければならない。

けれども日本には
西欧の日曜教会のような
宗教の次元を伝える場所が
無い。

もちろん
西欧の日曜教会が
本当の意味で神を伝える場所
たり得ているかどうかは
定かではないが

少なくとも日本には
宗教の次元を自己開示し得る方法を
伝授出来る場所が存在しない。

それこそが
問題なのだが
けれどもそれは
自己責任で一人ひとりが
自覚的に
自分自身の判断を
仮象から守って
高め深め広めることを
心がければ良いことだ。

手段は
歴史的に
いくらでも存在している。

自分で探せば
いくらでも見つけることが出来る。

大切なのは
教えてもらおうとするのではなく
自分自身で見つけて
自分自身で身に付けることだ。

教えてもらおうとすると
どこまでも
他律を脱出できない。

他人に教わったことは
自分自身のものにならない。

自分で見つけて
自分の手足にするのでなければ
使えないし
役に立たない。

発見と
修得の楽しみは
自分でやるからこそ
得られるものだからだ。

金儲けよりも
「悟る」がわかることは
ずっと楽しいと
ボクは思う。

自分自身で
そう感じ取っているから。

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最終更新
平成27(2015)年11月1日 午前3時17分
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