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2015年10月23日23:07

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夢想の左派と妄想の右派が想像をしない戦争の負け方 『日本のいちばん長い日』

戦後70年の節目に本作は戦争の負け方を主題にすえる。
はじめた以上、戦争には勝ち負けが発生する。
もう大戦発生の事由(じゆう)は薄い。 *1
ただ、それでもはじめてはならず、*2 右派の語る、ある程度の自衛は大事だし、*2
左派の語る、自衛を拡大・喧伝しないためのブレーキは必要だ。*3

70年前、日本は戦争に負け、国体を保持し、どう責任をとるか? *4
要求の狭間で懊悩した。映画は降伏受け入れ側に陸軍大将の阿南(役所広司)と、
首相の鈴木(山崎 努)。国体の中心の昭和天皇(本木雅弘)をすえる。
一方、徹底抗戦の側は陸軍少佐、畑中(松坂桃李)の視点をすえる。

本作は負け方の話だ。徹底抗戦の側の話は弱い。物語の視点から見ると
「玉音放送の原版を奪うスぺクタクルを発生させるために軍部が暴走した」
よう感覚しなくもない。とはいえ軍属の一部がエゴで暴走。
原版を守護した人々が存在したのは事実だ。

敗戦のときの責任の取り方は、
結局、67年版と同じ、阿南大将が一身に背負う。
阿南は政府と軍部、両方の視点と胸中を代弁する人物だ。
彼は日本の“負け”を連れ腹を切る。

67年版と15年版の大きな違いは、阿南が割腹する場面と、
昭和天皇を直接描写するかだ。賛否両論あろうが、
戦争の苦痛を想像・共感する“身体性” *5 が欠如するなか必要なものだろう。
割腹で血は流れ、天皇は人間ゆえ思い悩む。*6
その“身体性”を選択した原田眞人のバランス感覚を称賛する。


※1 “経済”が国家連携しており、すべての国家が各国から功利を得る現在に大戦など“もう”意味はないし、発生などはしない。たとえばA国が侵略戦争を開始した場合、その国家は世界全体を敵に回す。40年代当時にくらべ通信速度、武器性能、あらゆる存在は高速・遠隔でミサイルは地球の裏側から発射でき、同盟各国に連絡は即座に飛ぶ。その意味で、かつての大戦を安保の共通基盤に語る左翼・右翼の視点は夢想と妄想がすぎる。

※2 なぜなら勝っても負けても疲弊し、なおかつ負けたらば、より悪いからだ。なら、はじめなければよい。また、正直にいえば、※1もあって、いわゆる大国は戦争を“はじめられないだろう”。現在において。

※3 たとえばフィリップ・K・ディックの言う様に戦争は人間の本能ではない。ただ、人間が有史において防衛(と一部闘争に)武装を選択した以上、平和とは“通常”の状態ではなく“異常”な状態だ。一部や全体が武装しているのが現在の人類の“通常”の状態。そのなかにおいて左派(左翼)の言う様に“異常”を貫き通すのはむずかしい。

※4 ※1のように大戦がほぼ発生しない現在において、右派(右翼)は、防衛のための軍備・軍拡を過剰にテーブルにあげすぎなのである。一手目は外交・交渉で、二手目が軍備・防衛のはずだ。だが現在の目立つ市井の主張は二手を先に取り上げ一手の視点を欠く。保守主義を土台に、どの切り口で外交・交渉をするかを、まず、しめすべきなのだ。

※5 本作の強い強度は戦争へ敗北した日本が、どう行動して? なにを選択したか? 歴史を振り返って描くからだ。物語ではなく事実へ近い。夢想や妄想ではなく本作は“現実”における負け方の選択を描く。

※6 身体を傷つけられれば血が流れ、人間は悲劇に悩む。そうしないためにはどうするのか? そうさせないためにはどうするのか? 戦後70年の月日で、その実感が風化するなか、自身と他者がうける(うけた)傷や痛みへ想像をめぐらすことが必要だ。
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