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2015年10月23日23:06

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穴(喪失)をうめて自立する。だが、つめ込みすぎおさまりきれない 『バケモノの子』

『おおかみこどもの雨と雪』に続く細田守のファンタジーは、
1匹のバケモノと1人の少年が喪失をうめて自立する物語だ。
主題(喪失の補完と自立)を作品は中々に描き出す。*1
ただ、物語は枝葉が多く、
あるとき主題が監督の「やりたい描写」の二の次になってしまい集中を欠く。
おさまりきらないのだ。

物語は王道だ。家出した少年、九太が現実の渋谷と相克を成す、*2
バケモノの住む街“渋天街”へ迷い込む。
九太はそこで剣の腕は抜群だが残念な性格の熊徹と出会う。
師匠と弟子で、父と子の2人。反発しあうも、
双方が想い合い、足りない物(穴)をうめる。
この【序盤】は主題に集中でき非常に良い。

映画は以後、九太が現実世界へ戻り、人間の少女(楓)と出会う【中盤】。
もう一人の人間が人間世界とバケモノ世界に危機を呼び、
九太が対決する【終盤】へ続く。

だが、【中盤】〜【終盤】にかけて、物語は主題への集中を欠く。
たとえば楓は九太をはげます精神的支柱だが、
恋愛対象にしても友人にしても掘り下げが浅い。
物語のなかで性急に重要な立場へなりすぎる。

性急さは最後に敵と化す一郎彦も同じ。九太に抱く憎悪の描写が浅く、*3
彼は単純に「物語に必要な敵と化す都合」で暴走する。*4
その九太と一郎彦の対決で説明されなかった設定や描写が噴出するのも、
問題というよりは“つたない”。*5

つめ込みすぎだ。
もうすこしだけ整理できればよかったのだが。*6
非常におしい。


※1 九太が母親を失い、家庭の不和で家出。父親のいなかった少年が熊徹(父親のかわり)と出会い、大人の階段を上る。その喪失の補完と成長の“主題”に不足している部分はない。

※2 相克(そうこく)。現実の渋谷と渋天街は影響しあっている。……が、この説明は最後の最後で“説明”されるだけだ。

※3 一郎彦の暴走の原因は父親、猪王山(いおうぜん)とのあいだにある親子関係と、“なりたい”ものへとなれない屈折(劣等)が原因だ。猪王山と一郎彦の関係の描写は十分だが、一郎彦の憎悪が九太へ蓄積していく描写は積み重ねがない。一郎彦の暴走に説得力をもたせるならば、最低限、九太と熊徹の関係を羨む描写が途中に必要なはずだ。

※4 ※3も参照。つまりは暴走する理由に観客が強く納得できないのだ。

※5 本作は説明大量の作品ではない。おそらく監督は“画”や“間”で行間や内容を説明しようとしている。それ自体は立派だが、前作も今作も、その試みは志しで終了している。そのあたりが(描写で押し切る力を含め)よく後継と話題・比較をされる庵野秀明と細田守が宮崎駿に、まだ追い付くことができない部分かもしれない。

※6 結局、まだ、細田守は「自身のやりたいこと」を優先してしまって引き算ができない印象をうける。とはいえ、その部分は監督の今後の伸び代で期待をしたい。
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