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2015年09月21日05:11

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山本史郎 『東大の教室で『赤毛のアン』を読む 英文学を遊ぶ9章』  東京大学出版会 2008年12月刊

六年前に読んだ本。
山本史郎 『東大の教室で『赤毛のアン』を読む 英文学を遊ぶ9章』 http://goo.gl/cYwOml #bookmeter 東京大学出版会 2008年12月刊。2009年1月20日読了。

本書で扱われているのは以下の五作品。

L.M.モンゴメリー 『赤毛のアン』
J.R.R.トールキン 『ホビット』
ジェイン・オースティン 『高慢と偏見』
チャールズ・ディケンズ 『大いなる遺産』
シャーロット・ブロンテ 『ジェイン・エア』

30年以上前(1973-78)に文学部の学生だった私は、昔、教室でこのような講義を聞いていた若い頃のことを思い出して、懐旧の念に浸ってしまいました。

著者は、東京大学大学院総合文化研究科教授で、トールキン、ローズマリ・サトクリフ他の翻訳を50冊以上刊行しています。

「…英語で文学を論じる際によく用いられる用語の一つである「語り」という言葉に、ほんの少しだけ注意をむけてみよう。

「語り」は英語でいえば narrtion である。日本語の「ナレーション」という語は使用法が限定的で、たとえばドラマや映画のなかの、登場人物のセリフではなく、物語の外側から聞こえてくる声を意味するのが普通である。

これに対して、英語の narrtion は、そういう意味で使われることもあるが、もっと一般的に「物語を語ること」という意味で用いられることが(少なくとも文学の議論では)多い。

また、物語そのものをさす場合には「ナラティヴ」(narrative) という語が使われるのが普通だ。

「語り」には「一人称の語り」(first-person narrative) と「三人称の語り」(third-person narrative) がある…

「三人称」の語りは「全知の語り手」によって語られるので、語り手の存在は希薄で、無色透明だというのが、いわば常識ではないだろうか。

とくに英語という言語には文体の上に性差や年齢差が現れにくいということがあるので、よけいに「三人称の語り手」が見えにくい。

しかし、そのような常識は常に正しいわけではない。すぐれた小説家は、むしろそのような常識と戯れ、それを裏切ることで、思わぬ効果を上げることに成功している場合がある…」p.108 語り手の謎 語っているのはどんな人?

上の引用はジェイン・オースティンの『高慢と偏見』の冒頭部分を扱った章からです。

「…村岡花子訳の『赤毛のアン』には原作の一部を大きく省略しているところがあるが、なぜそのようなことを行なったのだろうか?

それとは逆に、村岡花子が省略するのが適切と考えたような箇所が、そもそもなぜ原作には存在するのだろうか?」p.ii まえがき

村岡花子による省略については何も知らなかったので、とても面白く読めました。

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