昨日のお昼から、うどんやお粥を食べたり、ホットミルクを飲んだりしています……少し胃(膵臓? 脾臓?)周辺の痛みは治まってきているけれど、まだ完治しておらず……今日もほとんど安静日です。
闘病生活や痛みがほとんど日常生活となってくるとき、こうしたOSHOの言葉が深く深くしみ込んできます……
『 惨めさを祝いなさい! 』
Osho, Yoga: The Alpha and the Omega, より
惨めさについてさえ、あなたは喜び祝う態度をとることができる。例えば、あなたが悲しいとき、悲しみに同化してはいけない。観照者になり、その悲しみの瞬間を楽しみなさい。というのも、悲しみには独特の美しさがあるからだ。あなたは一度も見守ったことがない。あなたは完全に同化してしまうので、悲しみの瞬間の美しさにけっして入っていかない。見守ったら、自分がどんな宝物を見逃していたか、あなたは驚くだろう。
見なさい = 幸福なとき、あなたはけっして悲しいときのように深くない。
悲しみには深みがある。幸福には浅薄さがつきまとう。幸せな人たちのところへ行って見てみるといい。いわゆる幸せな人たち、遊び人の男や女、クラブや、ホテルで見かける人たち、劇場や映画館など、そういった人たちはいつも笑っていて、幸せにわきたっている。彼らはいつ見ても薄っぺらで、上辺だけであることに、あなたは気がつく。彼らには深みというものがない。幸福は表面にしかない波のようだ。あなたは上辺だけの人生をすごす。だが、悲しみには深みがある。あなたが悲しいとき、それは上辺だけの波ではなくて、まるで太平洋の深海のようだ。何千メートルもの深みがある。
その深みに入っていって、それを見守ってみるといい。幸せは騒がしいものだ。悲しみには静けさがある。幸せが昼のようだとしたら、悲しみは夜のようだ。幸せが光のようだとしたら、悲しみは暗闇のようだ。光は来ては去る。暗闇はとどまる。それは永遠だ。光がたまに生じる。暗闇はつねにそこにある。あなたが悲しみのなかへ入っていくと、このすべてのことが感じられる。突然、あなたは悲しみが対象としてそこにあって、自分が見守り観照していることに気がつき、そして突如として、あなたは幸せを感じはじめる。
こんなに美しい悲しみ! それは暗闇の花、永遠の深みの花だ。
底無しの深淵のように、とても静かで、とても音楽的だ。いっさいの雑音がなく、妨げるものはない。人は無限にそのなかへ落ちていくことができるし、すっかりみずみずしくなってそこから出てくることができる。それは休息だ。
それは態度しだいだ。悲しくなると、あなたは自分によくないことが起こったと思う。自分によくないことが起こったというのは解釈なのだが、あなたはそこから逃げ出そうとしている。あなたはけっしてそれに瞑想しない。そのようなとき、あなたはだれかのところへ行こうとする。パーティーへ、クラブへ、あるいはテレビやラジオをつけたり、新聞を読みはじめたり、とにかく忘れようとしてなにかをする。このような間違った態度、悲しみはよくないという態度が、あなたに教え込まれてきた。それはなにひとつ悪いものではない。それは生のもうひとつの極だ。
幸福は一方の極であり、悲しみはもう一方の極だ。至福はひとつの極であって、惨めさはもうひとつの極だ。生はその両方から成り立っている、そして生にはこの二つゆえに規則性がある。至福だけの生には広がりはあるが深みがない。悲しみだけの生には深みはあるが広がりがない。悲しみと至福の両方がある生は多次元的だ。それはいっぺんにすべての次元のなかを動いていく。仏像を眺めるか、または私の目のなかをのぞきこんだら、あなたはその両方をいっぺんに見いだすだろう。至福、安らぎ、そして悲しみもまた。あなたはそのなかに悲しみをも含んだ至福を見いだすだろう。なぜなら、その悲しみが至福に深みをもたらすからだ。仏像を眺めてみるといい。至福に満ちているが、悲しげでもある。この「悲しさ」という言葉があなたに間違った意味を連想させる。なにかがよくないという。これはあなたの解釈なのだ。
私にとっては、全体としての生が好ましいものだ。そして全体としての生を理解して初めて、あなたは祝うことができる。そうでないと祝えない。祝祭とは、なにが起ころうと関係ない、とにかく私は祝うという態度だ。祝祭はなにかの条件に依存しない。「幸せだったら私は祝う」とか「不幸せなら私は祝わない」とか。
祝祭は無条件であり、私は生を祝う。
生は不幸せをもたらすが、それでいい、私は生を祝う。生は幸せをもたらすが、それでいい、私は生を祝う。祝祭は私の態度であり、生がもたらす条件には依存しない。
だが、私が言葉を使うために、それらの言葉があなたの心に連想を生じさせ、問題が起こってくる。私が「祝いなさい」と言うと、あなたは幸福にならないといけないと考える。悲しいのにどうして祝うことができるだろうか、と。私は祝うために幸福にならないといけないとは言っていない。祝祭とはなんであれ生があなたへもたらすものに感謝することだ。神があなたになにを与えるにしても、祝祭とは感謝の気持ちだ。それはありがたいと思うことだ。
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