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2015年08月22日00:31

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『仙境の桃』第2話

『仙境の桃』第2話

「…なぁ」
 ミーノスに去られて呆然としていたラダマンティスにカノンが声をかけた。
「おじさん、誰なんだよ」
「…お兄さんは、ラダマンティスだ」
「ラダ…?」
 長い名前をカノンは言いにくそうにした。
「ここ、どこだよ。何でおれ、こんな所にいるんだよ。おじさんが連れて来たのか?」
「おじさんではない…。というか、カノン、お前、今いくつだ」
「え…と、六歳」
 カノンは右手の指を全部広げて、さらに左手の指を一本立ててみせた。
「肉体だけでなく精神も六歳まで若返ったのか…」
 ラダマンティスが大きくため息をつく。
「なぁ、ここ、どこだよ。サガは?」
 不安そうに問うたカノンは、椅子から下りて歩き始めた。
「サガ、どこ?」
 サガの名を呼びながら、室内を歩き回る。やがて扉の取っ手に手をかけて部屋から出ようとしたカノンを、ラダマンティスは抱きかかえた。
「こら、部屋から出るな、カノン」
「放せよ!サガ、どこぉ?サガ〜、キルケ〜、マルコ〜」
 カノンは兄の名前を呼び、養母を呼び、養母の使い魔の名前を呼んだ。そうして知った者が誰もいないことに気づくと、不安がいっそう募ったのだろう、とうとう泣き始めた。
「ふえ…ふええええーん!サガァァァァ!」
「ああ、こら、泣くな、カノン」
 泣きじゃくるカノンをラダマンティスは必死に抱いてあやした。
「サガァァァ、うえっ、ぐすっ…」
「カノン、サガはここにはいない」
「いないって…どうして?」
「……。あのだな、カノン、お前はしばらくおれが預かったのだ」
「預かった?」
「ちょっとわけがあってな…。大丈夫、すぐ帰れる」
「またサガに会える?」
「会える。だから泣くな」
 ぐずぐずとカノンは涙をぬぐった。ラダマンティスはカノンを抱きおろし、小さな頭を撫でた。
「ここ…どこぉ?」
「ここはカイーナと言ってな。おれの家だ」
「…アイアイエじゃないよね」
「外を見てみるか?」
 ラダマンティスはカノンと手をつないで窓の近くに案内した。ガラス窓の外には一面の氷原と、燐光のまたたく暗い冥界の空が広がっている。
「うわっ、ずっと氷ばっかり!」
 ガラス窓に張り付いたカノンは外の光景に驚き、声を上げた。
「一人で外に出てはだめだ。暗いし、寒いし、広いし、迷子になるぞ」
「変なところ…。空が真っ暗だ」
「冥界だからな」
 その単語にカノンが首を傾げた。
「冥界って…死んだ人の行くところだよな。じゃあ、おれ、死んだの?」
「いや、死んでない。死んでないが…特別にな、来たのだ」
「じゃあ、父さんは?」
「父さん?」
「父さん…死んじゃったから…。ここにいる?」
「…探したらいるかもしれないな。会いたいか?」
「うん。父さんに会いたい!」
「だがここにいる魂は影のような存在だからな。カノンのことが分からないかもしれないな」
「…父さんも、母さんみたいになっちゃったの?」
「母さん?」
 うん、と、カノンは再びうなずいた。
「母さん…、父さんが死んでから変なんだ。おれたちのことを見てくれないし、話してくれないし、いつもぼうっとして、座ってて…。この前は突然怒って、見たことのない怖い顔でサガを叩いて…。あんなに優しかったのに…もうおれたちに笑ってくれないし、おれたちのことを抱きしめてもくれないんだ…。もう元に戻らないのかなぁ」
 そうしてカノンは瞳に涙をにじませた。
「父さんが死んだの…サガが聖域ってところの奴に見つかったからなんだ。それで殺されて…。母さん、それでおれたちのこと嫌いになっちゃったのかなぁ。母さん、おれたちのこと、いらなくなっちゃったのかなぁ…」
 うつむいて唇をかんだカノンの顔は、涙がこぼれるのを耐えているように見えた。
「母さんに会いたいか?」
 だがラダマンティスのその問いに、カノンは首を勢いよく左右に振った。
「いらない!だって会っても仕方ないもん!」
 そう言ったカノンは、必死に意地を張って母への恋しさをこらえているように見えた。母に嫌われたと、捨てられたと思い込んで、でも寂しさは募って、どうにもならなくて、ならばいっそ自分の方から母を思い切ってしまえと自分に言い聞かせているのだ。断ち切れるはずもない母への想いを、必死に断ち切ろうとしているのだ。
「新しい母さん…キルケだったか。彼女はどうなのだ?」
「キルケは母さんじゃないよ!」
 突如、カノンが声を荒げて顔を上げた。先程までの沈んだ様子とはうって変わった態度の豹変ぶりである。
「おれの母さんはエルセルートだけだ!あの女は母さんじゃない!」
「キルケのことは嫌いか?」
「だって…いつも、あれはするな、これはするな、ってうるさいし…。そのくせべたべたと抱き付いてきて…鬱陶しいんだ。それに見てると変な感じがするんだ。胸がどきどきして、頭がぼうっとして、熱くもないのに体が熱くなって、息が変になって…なんかじっとしてられなくなる」
「…それは『好き』のどきどきではないのか?」
「違うよ!なんか、変な感じなんだ!だから側に寄りたくないんだ!」
 …どうやら美しすぎる「母親」に、いっぱしに男として欲情しているらしい。彼女に対して感じる気持ちと自分の体の変化に違和感を覚え、反発し、これは「嫌い」なことだと忌避しているのだ。
 魔女と呼ばれるキルケはパシパエの姉妹に当たり、地母神の系譜に連なる。人を蠱惑する性的魅力を属性として備えた女神を「母」に持つのも大変だな、とラダマンティスは他人事ながら思った。
「…なのにサガはあの女にべったりで…。おれよりあの女のことが大事みたい。なんでも言うこと聞くし、薬草を教えてもらうとか、ポプリを作るとか、色々言っていつもあの女の側にいるんだ。前はいつだっておれと一緒だったのに…」
「…兄が自分から離れて寂しいのか?」
「さ、寂しくなんかないやい!」
 そう言ったカノンだが、どう見ても虚勢を張っているとしか見えなかった。
「きっとキルケとサガはおれが嫌いになったんだ。それでおじさんに預けたんだ」
「…そういうわけではないのだが…」
「きっとそうだよ!だって、キルケはいっつもサガばっかりほめてるもん!おれのことは怒ってばっかりなのに…」
「そうなのか?」
「こないだも叱られた。キルケの香水、全部捨ててやったから…」
 それは叱られて当然だろう、と、ラダマンティスは思った。
「どうしてそんなことをしたのだ?」
「だってサガがあの女の匂いをさせてるの、やだもん!」
 ぶうっとカノンが頬を膨らませてむくれる。白い頬にやや赤みが差して、ミルクに薔薇の花びらを浮かべたようだ。
「その前は、薬草の標本をばらばらにしてやったら、怒られた」
「…またどうしてそんなことを?」
「だって、サガとキルケが二人で標本を見てるの、嫌なんだもん!」
 要するに、カノンは妬いているのだ。兄が美しい養母に夢中なことに、養母が兄ばかり可愛がることに、子供らしい嫉妬をして、二人に嫌がらせをしているのである。もっと自分を見ろと駄々をこねているのだ。
「…お前はサガとキルケの気を引きたいだけではないのか?」
 それを聞くと、カノンは顔をしかめてラダマンティスの向こうずねを思い切り蹴っ飛ばした。
「こら、カノン…」
 カノンは、たたた、と小走りになってラダマンティスから離れていった。図星だったらしい。
 ラダマンティスはため息をついた。
 寂しがり屋で、甘ったれな子供だと思った。それなのに意地っ張りで、感情を素直に出せなくて、構って欲しいという気持ちを悪戯をすることでしか表せない。誰よりも愛して欲しい、優しくして欲しいと思っているのに、とんでもない悪童ぶりを示すから周囲も叱るしかない。そのくせ構えば構ったで、鬱陶しいと言って怒るのだろう。どう接したらいいものか、手が焼ける。
『…大人になったカノンも、あまり変わってないような…』
 うむむ、と、ラダマンティスがうなった。進歩がないと言えば進歩がない。
「…カノン、とりあえず、風呂に入らないか?」
「風呂?」
 ラダマンティスの呼びかけに、くるりとカノンが振り向いた。顔に喜色が浮かぶ。もう機嫌が直ったのだ。本当に感情が豊かで表情がくるくるとよく変わる。ラダマンティスは、可愛い、と微かに笑った。
「風呂は好きか?」
「うん!」
 そうしてラダマンティスは、うきうきと弾むような足取りのカノンを浴室に連れて行った。

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