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2015年08月12日17:22

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なぜ、お釈迦さんは法を説いたの?

まだまだ酷暑が続いているのだが、暦の上では立秋。
今朝の早朝散歩では、やや気温も下がり、空も高く秋めいた雲が浮かんでいた(大会があるとかでいつもより早く開門した園に中学生球児が大勢やって来たので、声をかけて一緒にラジオ体操をしたら、気分がマスマス秋空のようにスガスガシクなった。年寄り同士でやるよりエエナア!(^^))。

ここ半月の酷暑ときたら、最高! お陰で昼間はもっぱらマイ避暑地である図書館で昼寝(もう手に持った本を床に落としての爆睡)、夕方には呑み友達と示し合わせてのビール・焼酎とバカ話三昧(バカ話のできる呑み友達ってのはイイナア、暑気払いに最高です)。
ワリにマジだったのは、奈良博物館に出かけたのと、一昨日に早目のお墓参りをしたことぐらい。

が一応、朝は4:00前後に起きモーニング・コーヒーを飲みながら2時間程度は、半月前に読もうと決めた課題図書二冊に取り組んではいる。イマイチ集中できんかったが、『仏教思想のゼロポイント』は二回目を読んでおり、『語れぬことを語る』は註をスキップしながらほぼ2/3ほど読んだ(註の方がボリウムがあるのだが、取り敢えず枝葉の詳細論議は棚上げして)。

さて、今日はその『仏教思想のゼロポイント』からの大まかな骨組に相当する話。
ご存じのごとく原初の仏教(お釈迦さんの仏教、テラワーダ仏教)では、この世の全ての現象は苦であると説き、その苦の原因である渇愛を滅尽して苦なる現状から解脱することを説いた。
お釈迦さんは、「不生であり無為である涅槃を覚知し、そうすることで渇愛を滅尽し解脱を達成して、「これが最後の生であり、もはや再生することはない」と自覚した。即ち悟ったと。

ここで、「悟りとは?」についてはいろいろ論議のあるところだが、それは一応棚上げにして、お釈迦さんは「悟った後、なぜ死ななかったのか」という疑問に取りかかろう。

「悟った後、なぜ死ななかったのか?」とは、「なぜ自らの悟りの境地を楽しむだけで終ることなく、その後の人生で衆生に法を説いてまわったのだろう?」の意味であること、また、法を説いて回ったのは梵天さんの懇請(いわゆる梵天勧請)によるものであることは、半月前の日記に書いた。
(なんで、そんなシンドイことを請け負ったのか、私奴ならイヤというのにとも)

本の第7章「智慧と慈悲」によると、梵天の懇請(世の中には煩悩の汚れの少ない衆生も存在するし、彼らは法を説けば理解するだろうからと言ったそうな)を受けたお釈迦さんは、「衆生へのあわれみの心によって」、仏の眼を持って世界を観察した結果、法を説く(不死の門を開く)ことにしたのだと。
(別に、そうしなければならないからしたのではなく、お釈迦さん自身がそうすることを選んだのだと言い、読者に注意を喚起して次の様に著者は述べている)

 「慈悲心によって具体的な利他の実践をするかどうか、そして、それをいかに・どの程度のレ
 ベルで行うのか、という点では、彼に選択の余地、言いかえれば、「自由裁量」の可能性が存
 在していたということだ」。
 「例えば、ゴーダマ・ブッダの出家の動機は一切衆生の救済にあったはずだから、悟後に彼が
 開教して説法をはじめたのは当然であり自然なことだ、と考える人たちもいるが、「梵天勧請」
 の事情を見る限り、そのように解釈することは難しい。右に見たように、彼にとって必然ではな
 く、あくまで選択肢の一つだったのであり、そうである以上、開教し説法するという具体的な利
 他の実践には踏み出さずに彼が人生を終えてしまう可能性も、存在していたわけである。」

「自由裁量」ということになれば、幾つかの態度が考えられる。
A.「悟った」んだがそれを自身で楽しむだけで、法を説くことはしない。
 (実際、長い歴史の中では、そんな出家者もいただろう。ただし、誰にも法を説かなかったのだ
  から、誰もその出家者の存在は知らない)
B.「悟った」んで、初めはその境地を自身だけで楽しんでいたが、覚者の「あわれみの心」を
 持って、悟りを求める衆生には法を説くことにした。
 (お釈迦さんはこの場合に入る)
C.「悟った」上に、衆生には仏心有りと考え、全ての衆生を救うという方向に拡大して、法を説く
 ことにした。
 (大乗仏教の立場? チョット違うかも知れんが)

では、お釈迦さんが上記のBの立場を選択したとは、どんな意味合いがあるのだろう?ってのが疑問として浮かび上がる。
この本では、「悟りとは?」「覚者のあわれみの心、慈悲心とは?」について述べられているのだが、それはまたいずれの日にかに、いたしやしょう。

兎に角、「長年に渡って法を説くなんて、何でまたお釈迦さんはそんなシンドイことしたのやろう?」なんて、ゲスな疑問については、「それは、お釈迦さん自身が、それを主体的に選びはったんや」という解釈は、大変新鮮味がある考えやなあと思ったもので、立秋とはいえクソ暑い中、長々とよしなし事を書いた次第!(チョット、羊頭狗肉な文章になってしまった、ゴメンナサイ(^^;;;))
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