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2015年07月28日00:59

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「結果の平等」では破綻する

■給食費未納で提供停止、何が問題か? 「無銭飲食」「子どもが犠牲」
(ウィズニュース - 07月27日 07:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=220&from=diary&id=3535734


「結果の平等」を目指した共産主義の国々の大いなる実験は惨憺たるありさまに終わった。すでに結論は出ている。「機会の平等」を目指す資本主義や民主主義が絶対的に正しいベストだとは言わないが、現時点ではベターだと思われる。

「機会の平等」は可能な限り守るべきだとは思うが、「結果の平等」はあらなた不平等不公平を生み出す。部分最適で全体最適を崩すことをシステム的に行うべきではない。

因果関係を見てみよう。「給食費を支払ってない」のに「給食が食べられる」というのは給食費を支払っている側からすれば不公平で不平等なことだ。

「給食が食べられないなんてかわいそう」という感情論で「結果だけを平等」にしようとすると、前提を無視することになる。「働かざる者食うべからず」というのは一般社会の法則の一つであり、小学生とてそれを学ぶ必要があるのではないか。

責任者が責任を取るのが本来の理想だ。たしかに「だらしない親」の元に生まれたのは子供の責任ではない。だが、社会の責任でもない。にもかかわらず社会に責任を取らせるのはおかしい。

現実世界では貧富の差以外にも容姿の差や能力の差、親にもらえる愛情の差など不平等、不公平なスタートなのは当たり前のことだ。給食費の問題だけをシステム的に是正すると他の問題を是正しないという新たな不平等が生じるわけだ。

親の不道徳も含めてこどもが受け継がざるを得ない「負の遺産」なのだ。それを制度やシステムで「結果の平等」として救ってはならない。繰り返すが新たな問題、新たな不平等や不幸性が発生するので解決にならないからだ。

むろん、だからといって「いじめてよい」とか「差別してよい」という話ではない。教師や個人的な友人が善意で救おうとするのは何ら問題ではない。あくまでも、「制度やシステム」で救ってはならないということだ。

なお生活保護を受けてないからと言って給食費が払えるとは限らないという本文の説明には違和感を覚える。生活保護を受けないことを選択しておきながら給食費は支払わないというのはどういうロジックなのか? その「機会」は与えられているのに、拒否の判断をしたのは親御さんだ。親御さんの判断に子供が影響されるのは当然のことだ。
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