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2015年03月09日21:28

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偶像崇拝の考察その9

第2次美代ちゃん論考  連載第33回(最終回)




いよいよこの論考も最終回となった。



ここから先は私の知性と教養では「しっかりとした論述が構成できない」感があるので、どちらかと言えば「断片的随想の列挙」というべき内容であることを前もってご了承願いたいのだが・・・・




☆そもそもその「リアルであること」とはどういうことなのだろうか?




そうなのだ、そもそも「リアル」及び「意識」とはそれ自体一体どういうものなのだろうか?・・という根本的なところが、まだまだ私には不鮮明で全然掴めきれないのだ。




「リアル」とか「意識」という言葉は大変便利なだけに使用頻度が高いわけなのだが、実際問題としてそれはどういうものであるのか?・・・ということを考え始めるとかなり突き詰めていかないとわからない・・というよりどれだけ頑張っても「突き詰めきれないもどかしさ」があると言おうか?


また言語によっては、その言葉の意味自体の精密なグラデーションの相違があることも看過できない・・例えば日本語での「意識」と称されるものが、「チット」と「マインド」が混在された表現になっているのかもしれない?・・・と感じられなくもない。


(日本語の「こころ」という表現ほど大雑把なものはないだろう・・笑)





これは「現実」とか「在る」というのも然りである。


日常的地平に於いて、これらの言葉はかなり「最大公約数」的な表現といえるのではないか?(また実際生活の局面にあってはそれで充分なのでもある)




一体「リアル」であるということは、そもそもどういうことなのか?




実はそれ自体については、それを概念としての言葉で説明することが困難である・・・なぜならそもそも「言葉」とはリアルでない・・からであり、それがメタ概念であるからなのかな?


今回の論考に限らす、これまで私が書いてきた文章でもさんざん「リアルに機能する虚構」という言葉を使ってきたのだが、



では果たして、「実体がない虚構がリアルであるのは何故か?」というところまでは、現状私の頭脳では説明できない・・のである。





☆具象と象徴と無



具象してしまうと「顕現されてない部分」へのベクトルが弱体化する




象徴は「顕現されている部分」を通じて「全体性」へのベクトルが発動する


・・・・従って「偶像」は具象された「象徴」とも言い得るのだが、であればこそ「偶像としての具象化」されたものではなく、され得なかった背後の全体性へ・・と向かうベクトルが発動されなければ、それは単なる「鑑賞」以上のものではない。



そして「無」とは、それは同時に「全体性」そのものである(禅語に曰く「無一物中無尽蔵」)故に、ベクトルの必要性自体が存在しない。





☆「肉体無き」グルへの帰依




リアルである「それ」そのものを対象化しえない「無」そのものに合一化しうるならば、同時にそれは「姿なきグル」すなわち「神」に直結していくことなる。




ラマナの場合は、その身体的存在(であったもの)ですらも、それが表象しているものと殆ど完全に等しいものであった・・・ということになる。


聖者さんというものは基本的にそういう状態を体現した存在であるのだが、それでもやはりそれぞれにその「合一化」のグラデーションの度合いについては濃淡がある、と言えるのかもしれない。


例えばやはりイエスであるとかお釈迦さまなんてのは限りなく純度100%に迫るものであったことであろうし、ラマナももちろんそういう「純度の高さ」を体現されていたのである。





さていよいよこの論考もどうにかしてまとめなければなるまい(笑)


一体どのような地平に軟着陸させたら良いか?・・・とあれこれ考えたのだが、




その妥協策として?・・2013年秋に、別のブログへ「アルナーチャラ滞在日記」と混在する形で掲載した論考「虚構とリアル」の中で考察したものを、あらためて一部加筆して取り上げてみた。


(いずれその論考も改めて整備して、「単体で再掲載を試みる」予定である)




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「私なるもの」の「中身としての物語」(それ自体がこれまで述べてきたように「過去の記憶から構成されたリアルな虚構」である)が機能しているが故に、「私なるもの」に認識しうるフォーマットが与えられるのだろうか?


しかし「中身としての物語」がなくても、そこに「私なるもの」という感覚があるのならば、それは一体何なのか?


実際には「私なるもの」という感覚は、


「一つしかない共通のもの」


を、個人がバラバラに「中身としての物語」によって、身体的存在にとって固有のものと認識しているだけなのだ・・・とはいえないのだろうか?



案外その「感覚」自体は全ての人間が「共通して」抱いている(『私という内容の物語』ではなく・・)のだとしたら?


この「私という感覚」は何だろうか?・・そしてどこからやってくるのか?



「私」を自己証明するための「お話の内容」ではなく、「私」というそのもの・・・それ自体はしかし虚構なのかリアルなのか?


しかもその感覚には実体としての対象はなく、そのようなリアリティだけがある・・・のかもしれないではないか。


「私なるもの」があたかも「実体があるかのような虚構の」リアリティとして機能している・・・・

のかもしれないではないか!!




アドヴァイタ(不二一元論)的な見地・アプローチは常に、「それをそのようなものとして見ているのは誰か?」という問いかけに帰趨してしまうのである。




結局それらが「機能」しているリアリティのグラデーションが、「現象世界」おける「身体的存在」というフェイズでの「出来事」であって、


「私なるもの」ということ自体が、その中身の物語以上に「催眠術的暗示の重層的集積体」である虚構機能の「強大なリアルな顕現」である・・ということ。



我々が日常的に「私なるもの」として捉えている感覚は、「永遠不滅の絶対的霊性」であるところの「私の本性」からやってきたものであるにしても、「それそのもの」ではないのである。





「私」というものの本性とは、「絶対的な霊性」そのものそれ自身である




この見解はラマナも諸賢聖も、アドヴァイタ(不二一元論)であろうがなかろうが、あらゆるスピリチュアリティのグラデーションにおいて、共通している。




では敢えて問おう・・・そもそも「絶対的霊性」とは何だろうか?




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どうやら今回の「第2次美代ちゃん論考」としては、ここまでが限界である(笑)




もしあらためて別の機会に考察を試みるとしたら、私にとっての今後の展開への期待とは次の3つの方向性であろう。




1・(有機的な喜ばしき全体統合創造行為としての作品群の展開)、あるいは大いなる喜ばしき全体性(マハーアーナンダ・ホールネス)と言うヴィジョンの体現


2・「自己探求」という哲学的営為の深化が、「表現行為」へと完全に転換されいくダイナミズムの確立


3・神へと向かう普遍性、創造行為から啓示行為への飛躍


(と同時にそれらは果たしてアドヴァイタ(不二一元論)といかように整合しうるのだろうか?)





これらは単に思索対象ということではなく、見方によっては「少年時代」から朧気な形で「未来のヴィジョン」として追い求めて続けている、私自身の「ライフワーク」的大命題?・・・なのでもある。




実際私のこれまでの人生の内容とは、これらの命題への飽くことなき「トライ&エラー」の連続である・・・と言っても過言ではない、ドタバタやっているうちにこれといった成果もないまま50代半ばに差し掛かってしまったわけであるが(爆)



果たして最終的に今世の人生に於いて、これらのビジョンにどこまで肉薄し体現しうるのであろうか?・・・




それに関しては、もはや私のイリュージョンにあっては「神的領域」にまで祭り上げられてしまった「美代ちゃん」女神?のご加護を祈ることとしよう(笑)






・・・以上を持って第2次「美代ちゃん」論考全編終了。

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