第2次美代ちゃん論考 連載第32回
この考察のプロセスはいかなる地平へと向かうのであろうか?
今回の論考の構成としては、「美代ちゃん」への熱情の由来を自己分析することと、同時に「美代ちゃん」及び美代子さんの他のタレントにはない「独特の魅力」を真面目に解析してみたい・・という試みの2本がメインであり、
そして「美代ちゃん」への「好きで好きでたまらない」情熱が向かう対象へのアクセス方法が、実際問題として「美代ちゃんワールド」として形成されうる過去の2次元的記録群というチャンネルしかない、
・・・という状態が、私の信仰の核である「ラマナへのディヴォーション」についても少なくとも表層構造としては同様ではないか?ということと並列して考えた場合、
必然的に「偶像崇拝」というテーマに収束させることで、私自身にとっての「宗教的営為」ということの全体理解に寄与しうるのではないか?
という意図で第3部を執筆したわけである。
そして全体の第1稿を書き上げた時点では、前回(第31回)掲載した「ラマナのお写真」についての説明でこの論考をクローズすることになっていた。
しかしながら、ウェブ掲載にあたり第1稿を分割して一部手直ししながら連載を続けているうちに、ふと「新たなる命題?」が浮上してきたのである(笑)
それは・・・
☆偶像なるものの「実在」と「虚構」、そしていずれにしてもそれらが「リアル」であることとは?
・・・ということなのだが、実は後述するようにこれは私にとっては「積年の命題」でもある。
で今回はこの「偶像崇拝」からの連想として・・・「モデルになった実在の人物の存在の可能性?」ということが出てきたのである。
偶像として象られた神様や仏様であるが、全てではないにしても「モデルになった実在の人物」がいた・・・としてもおかしくはないのではないか?
まあ実際日本の神社のご祭神の中には、明らかに実在した人物である場合もあるわけだが、では翻って例えば「美代ちゃん」は女神に祭り上げられ得るだろうか?(笑)
私はラマナ=アルナーチャラへの熱烈なバクタであるのだが、同時に弁天様はじめ女神様の追っかけ?もやっていて・・・・
それはおそらくは「シャクティ・エネルギー」の生成ベクトル?が私にそのような行動を選択させてしまうのであろうと考えられるのだが、そのような意味合いに於いて、
私にとっては既に「美代ちゃん」もまた「女神の一人」に列せられているわけでもある。
そして視点を変えてこのように問うてみる・・・・・
過去に於いて特定の個人が「実在した」事の証明は何によって成立するのか?
これは結局、「諸般の記録によって」ということになるのではないか?・・・ということは当然のことながらその様相は、「メディア」の発達史とも深い関連があることだろう。
写真の発明・レコードの発明・・・あるいは印刷技術、遡れば「紙」自体の発明。
そしてさらに遡れば・・・・人々の記憶の中に「物語」として保有され、やがてそれが普遍的なイメージへと進化するに及んで絵画や彫像などに反映・結実した・・可能性もあることだろう。
現在の我々は21世紀という時間軸における認識のフェイズで、「世界を描写している」・・・のであるが、同時にそれは「そのようにあるに過ぎない」とも言いうるのである。
例えば「近代的自我」の確立以前の「個人意識」の様相が、現在と全く同じであるとは断言できないのだ。
そしてまた「人類史」という巨視的スケールで考察すれば、ある個人が「実在」したことに、「絶対的な意味があるのだろうか?」という疑問も浮上してくる。
仮に「虚構上の人物」との決定的な違いは、もしかしたら単に「身体的存在」を獲得していたか否か?であるとしたら・・・?
何か「イデア」なるものが顕在化するにおいて、「依り代」が必要であった場合、たとえばそれが「人間的存在の営為」として表象されるとした場合、その営為の方がメインなのであってそれの当体としての「身体という形式」には絶対的な意味は持たないのではないか?
であればこそ、「偶像」も「芸術作品」も、身体的レベル?として「虚構」であったとしても、それ自身の果たす役割に於いて「実在」と全く違いはない。
となるとネット世界に代表される「バーチャル・リアリティ」なるもののの、「バーチャル」であるということの意味合いも、あくまで「身体的」リアルとの対照するフェイズに於いて派生することになるし、当然「夢」におけるリアリティとの同質性という点にも考察されるべきポイントである。
そして「夢のようなものだ」としたらまさしくそれ自体がリーラなわけで、ただそれが「『リアル』なものとして感知される」ということである。
しかしながら日常生活のレベルにあっては、その基底として「身体的存在」のフェイズをメインとして在る・・以上、そのリアルに対して「主格的当体」としての責任、というより「義理・筋合い」が生じて?そこを無視するわけにいかない・・のが「渡世の掟」なのだ(笑)、
故に我々の日常は「選択の連続」の無限軌道なのであり、「選択に対し責任を持つ」ことが要請されるのであるが・・・。
この「選択に対し責任を持つ」ということと、アドヴァイタ(不二一元論)としての、「世界はそれ自身が面倒をみる」ということ、及びバクティ・ヨーギとして「人生の責任は全部神様に丸投げ」というのと、いかように整合するのだろううか?
世界に対してではなく、「神様」に「丸投げ」したこと自体に責任を持つ・・のだろうか?
それを「選択しよう」としているのは誰なのか?「願望」する行為とは何だろうか? 「責任を持つ」のは誰なのか?
責任」の話を更に考えてみると、さてバクティ・ヨーギにとっては全てにおいて「同行二人」なわけで、そういう意味では「行為における選択」の責任というものも、ハーフ&ハーフで分け合っている・・・のかもしれない。
あるいは結局は最終的には神様の方が100%責任を請け負ってくれるのだが、実際の「対応窓口」係員としての作業および「現場における実務的あれこれにおける「権限と責任」は、やはり当事者である自分自身の担当ということかもしれない。
いやしかしそれらもまた錯覚なのである・・・さらに高次的な視点からすれば仮にそれら諸々の「責任・選択」を一切無視するとしても、それは「夢の状況」が変化するだけでその「リアル」も「夢の中のリアル」なのであるが。
そうなると、そもそもその「リアルであること」とはどういうことなのだろうか?・・・という大変難解な大命題に突き当たってしまう。
次回(最終回)に続く
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