第2次美代ちゃん論考 連載第31回
しかしながらその肝心の、「信奉者」であるという表層の意識での自覚だけが全てではない・・のがなかなか不思議なところなのだ。
そのアイコンに対して「ご当人には全く興味すらもない」場合であっても、意識の深層領域において何かしらそれ関わるモード(資質とかカルマとか・・)が存在するのならば、「機縁」さえあればご当人の意志とは無関係にそのアイコンが起動する・・・こともある。
拡大解釈すれば、私の「美代ちゃん」への一目惚れもそういう範疇に入るのかもしれないが、それほどミステリアスでもなければ奇跡的事象とは到底いえない(笑)。
そこである知人の体験がスピリチュアリティという意味合いでも典型例であるので、ここに紹介しよう。
http://blog.livedoor.jp/maisan369/archives/25093208.html
・・・いかがであろうか? こういうことも実際に起きるのである。
そして敢えてここで一つの反証を提示してみよう。
私がこの章で展開した内容のテーゼとして、
「偶像崇拝」の対象である「依り代・ご神体」とは、それ自身にあっては単なる「物理的存在」である。
・・という認識から話を進めてきたわけである。
だがそれには当然異なる意見も存在するのだ・・・
「いや、その『物理的存在』自体が既に何らかの『超越的ファクト』を備えているのだ」
という意見である。
アルナーチャラにしても、確かにあの山を神道的感覚で「依り代・御神体」と捉えたほうが、「かむなび山」という概念が身近である日本人としては分かりやすいのだが、
南インドでは「アルナーチャラは『山の姿を仮象として』この現象世界に顕現しているシヴァ神そのものである」・・・と言われている。
つまり精密に言えば、「神様が山に宿っている」のではない・・のである。
そしてまた「ラマナのお写真」はただのお写真ではない!・・・という意見をここに紹介することとして、これをこの論考全体の「仮のクロージング」としよう。
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シュリ・バガヴァンの写真
(「バガヴァン」とは生前解脱した聖者さんに対する呼称であり、ここではもちろんラマナのことである)
(略)
シュリ・バガヴァンには数え切れないほどおびただしい数の写真が残されています。バガヴァンは、かれの「声」を録音する許可を求められたときには、いつもその申し入れを断っていましたが、その「形」を撮影することにはただの一度も異議を唱えたことはなく、つねに許可を与えてきました。
(略)
1950年のバガヴァンのマハー・ニルヴァーナ以降、わたしたちは肉眼で直接にバガヴァンの姿を見ることはできなくなりました。身体をもったグルにダルシャンを受けることができなくなって、シュリ・ラマナアシュラムに集まる人は日を追って少なくなりました。
(略)
1960年頃にアシュラムに住んでいたのは有名な外国人帰依者を含めて数十人に過ぎませんでした。
(略)
アーサー・オズボーンは雑誌に掲載するシュリ・バガヴァンに関する論文には、たとえただ一度だけでもバガヴァンの名が出てくるものには、すべてバガヴァンの写真を掲載するよう主張しました。しかし、アシュラムの内部あるいは外部にいた若干の有力な帰依者は、次のような理由でこの主張を批判しました。
「シュリ・バガヴァンの重要な教えは”私は身体であるという概念”を放棄することである。それなのになぜバガヴァンの”形”(身体)を崇めようとするのか?」と。
(略)
それに対してオズボーンは次のように言いました。
「シュリ・バガヴァンの写真は、あなたや私、あるいはその他の人々の写真とは違うのだ。われわれの場合、その身体にあるすべての毛穴は無知によって満たされている。しかし、われわれの師の身体にあるすべての毛穴は、あふれるほどの”ジュニャーナ””知恵””光”によって満たされている。だから彼の写真を見ることは、ほんとうは偉大な知恵(ジュニャーナ)を吸い込むことなのだ。」
(略)
シュリ・バガヴァンは身体をもってアルナーチャラの麓におられた時にも、彼は身体ではなかったのです。帰依者たちが見ていたのはかれの身体ではなく、真我だったのです。バガヴァンは身体をもっている帰依者たちのために、美しい顔立ちをした人間の姿であらわれ、そのことによって人々に「自己の本性は身体
でなく、真我である」という真理を教えたのでした。
バガヴァンは身体を放棄する直前に「人々は私が立ち去ろうとしていると言っている。しかし私がどこへ立ち去ることができるのか。私はここにいる」といわれました。今日わたしたちは人間の姿をしたバガヴァンに直接に会い、ダルシャンを受けることはできませんが、残された無数の写真を見ることによって、
「簡素さと純粋さがすべてであり、沈黙の中で繰りひろげられたバガヴァンの生涯」に想いを馳せ、実在の真理に導かれることは可能なのです。
シュリ・バガヴァンがおびただしい数の写真を残されたことは、(略) バガヴァンの同情心(Karuna)のあらわれであり、その広大な恩寵にほかならないのではないでしょうか?
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☆以上「Y文献」より抜粋引用
次回(多分最終回の予定・・笑)に続く
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