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2014年09月18日20:38

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「自己分析」と「自己探求」

 
気が付いたら今回のインド滞在も入国してから2ヶ月が経過している。

最初の2週間ちょっとというのは、コーチン〜カニャクマリ〜マドゥライ〜ラーメシュワラムを巡る旅だったのだが、なんだか随分以前のことのようなおぼろげな感じすらしている。


当初の計画ならば今日は北インド・リシケシに到着するはずであった・・あと3週間ちょっとで日本へ一時帰国する予定だったから、「帰国後のあれこれの楽しみ(サウナ&大浴場・天丼とざる蕎麦・「美代ちゃんグッズ」物色&入手などなど・・)を心待ちに夢想していただけに、それが随分と順延されることになってしまった・・のがいささか切ないところではある(笑)



さて、先日の日記で書いたように「くだくだしい自己分析」なんかよりも、第2次「美代ちゃん」論考の方を精を出して執筆しているわけなのであるが、しかしよくよく考えてみるとこの第2次「美代ちゃん」論考に取り組んでいること自体が、実は「自己分析」的営為なのですな。



特に論考の主要テーマの一つである「なぜ美代ちゃんを追いかけているか?・・の個人史上の分析」なんてのは、自分の少年期の終わり頃〜思春期を経て〜青春期の入り口の頃(ちょうどそれが「美代ちゃん」が活躍した時代と重なるのであるよ)においての、

無意識下に放置してきたあれこれの未分化な記憶の断片のあれこれを、深層心理学的に全体の中にとして再統合していこう・・という目的のための、まさしく「自己分析・精神分析」そのものだったりするのである。



そしてこれは他のアイドル・・美代ちゃんと同時期にデビューし活躍した人たちでは全く得られない(事実全く惹かれるものがないし・・)わけで、いわゆる「懐かしの昭和の時代」への追慕などでもない。


何故ならば「美代ちゃん」でなくては機能しない、個人精神史?としての「心理的要因」が大きいのである・・。


少年期〜思春期に抑圧してきた感情(エネルギー)を、創作された「美代ちゃんワールド」の全体の秀逸な構造がもたらすノスタルジックなイリュージョンの中へと解放していく・・どこかエロス的営為とでもいうべきであろうか?


キーワードは「赤い風船のあの子」かな?・・・


実はこれは本当の話なのだが、ちょうどその当時私が住んでいた家の一軒隣に、「みよこ」という名前の少女が住んでいたのざんすよ、それがまた可愛い女の子で・・・


以下続きは第2次「美代ちゃん」論考本編を乞う、ご期待!ざんす(笑)。



でまあ、この「自己分析」と「自己探求」というのが、時として混同されていたりしかねない・・のが昨今の一般的な「精神世界」的状況であったりもする、と思われる。

この2つは「似て非なるもの」であって、まったく別の営為なのざんすよん!


・・・ただし結果的に「『私』という呪縛」を解放する・・という意味合いに置いては共通する部分や、相互を補足しうる関係ではあるのかな?



あくまで一つの見解として、たとえば・・


生物学的進化のある過程に於いて、大脳の生理的プロセスがある一定の閾域値を越えた段階で「意識」なるものが誕生する。

それは外界の出来事に対して極めて「効率的に優位な立場をとり続けるためのいわば「総合的最適化演算」機能を有するようになる。

そしてある時何故か、この「意識」なるものが「意識」自身を「意識」化しようとした時に、この「総合的最適化演算」機能でもって対象化し始めた・・・

やがてこの機能自体がある種の「自立的自己統合」までこなすようになったとき、意識それ自体ではなくその「自立的自己統合」というシステムが「私」という概念を持つに至る・・・のがエゴの始まりではないか?


と仮定した場合、


つまり意識それ自体が本性として持つ「私」といういわば「先天的感覚・直感」と、エゴが自己像として描く「私」という概念・想念・観念は全くの別物である。

またある意味で後者は、前者を「実体的に表象する・説明する」ために対象化の過程として、過去の様々の体験の記憶から集積された「物語」によって構成される、「虚構的リアリティ」が機能している・・・のではないか?



次回に続く・・・・

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