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2014年08月20日12:56

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水没がまん祭まとめ

特権的肉体論とは要するに「その人にしかできないことを極端にデフォルメする」ということで、唐作品に取り組むにはこれは譲れない外せない核心なのだが、昨今の唐組は(おそらく唐ゼミも)この点はとうに放棄しているように、春公演「桃太郎の母」を見て思った。彼らは誰も特権的ではなかった。むしろ「ここまでなら誰もが到達できる」ことを目指した市民歌舞伎講座みたいになっていた。世に市民歌舞伎講座は数多くあるのだからこれはアリな方針ではある。でも僕がそれを目指さないことは明白だった。

稽古期間中、いちばん初めに特権的肉体を顕わにしたのは最年少(20歳)の松岡千明だった。ヒロインに横恋慕して気を引くため改造自転車で急坂を駆け降りて玉砕する富豪の御曹子というデタラメな役回りを、なんの工夫も見せず丸腰の直球で乗り越えた。特段に巧いとか、役柄にピッタリ合ってるとか、そういうことではない。数少ないであろう手駒をいきなり全部さらけ出して横断的に超克しただけなのだと思う。1982年、中3の冬にこの「秘密の花園」の初演を見たとき僕は「これは、音の壁だ」と思ったのを覚えている。ストーリーなんかはほとんど分からなかったがなにせこの芝居の「存在そのもの」が迫り来て、迫り来るゆえに世界には奥行きがあることが向こう側の世界から漏れ伝わってくる。その亀裂を保ち拡大し観客と異世界とをコネクトし続けるのが俳優の「存在そのもの」なのだ、ということに気づいた。32年経った今でも僕は中坊のときの認識を基本的には変えていない。ので、存在そのものとしていきなり演じ出せる松岡千明がたまらなく近しいやつに思えた。

千明に続け、みたいな感じで稽古は進んだがおいそれと花園は現出しなかった。各自の仕上がりはおおむねかなり遅かった。8人中7人までが平原演劇祭初出演でまるで勝手が分からないなか、なんとかなりそうだと思えたのが本番1週間前、これはいけると確信したのは当日だった。当日は全員化けた。特権的肉体に加えて空間知の身体も(稽古ではまったくメソッドを使わなかったにも拘わらず)体現されていた。

その人にしかできないことの集成としての舞台が特権的肉体論の核心であるなら、身体の風景化が空間知メソッドの核心である。このふたつを繋げることは、困難ではあるが可能だと考えていた。両方の演出をミクスさせると役者の負担と混乱が増大するので、今回は舞台装置に風景化を促す仕掛けをたくさん仕込んだ。

縦長のゆれるいかだ舞台と駆け抜けて水没する自転車。ゆれる障子とゆれる首吊り死体とそれをほの暗く照らすゆれる照明。虫の声のソプラノとウシガエルのバスと遠景を横切るヘッドライト・テールランプ。舞台に差し掛かるゆれる樹木の枝。花火大会とチープなBGM。そして、大雨。

これだけの装置に囲まれ、かつそれ以外の装置といっては地面すらないひどく簡素な舞台で俳優たちは、もう普通の意味で「演じる」ことはほぼできなく、踏ん切りをつけて「ただ、もう、ありのまま」やるしかなくなる。そのときもし彼らに特権的肉体が発現していれば、さまざまな揺らぎの効果は花火大会の最中に一気に重層化し、静寂が戻ると同時に忽然と「涅槃」みたいなものが顕れるだろう、という読みだった。さいわいにして読み通りのタイミングで雨も降り、求めていた以上に体は劈かれ、あの環境にあってなおめちゃくちゃ繊細な身体たちが観客を反照した。と、思う。

取り急ぎメモ程度にて。皆様ありがとうございました!






レビューがいくつか上がっています。

まねきねこさん
http://homepage1.nifty.com/mneko/play/HA/20140816s.htm

miss _ youさん
http://stage.corich.jp/watch_done_detail.php?watch_id=240013

片山幹生さん
http://otium.hateblo.jp/entry/2014/08/16/000000

にしうりすいかさん(アルバム)
https://plus.google.com/app/basic/photos/103070761517454323333/album/6048345347943306385

藍沢彩羽(出演者)
http://s.ameblo.jp/iroha-aizawa/entry-11911092853.html
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