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2013年11月08日20:18

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どう違うというのだろうか?



さあて本日よりいよいよ「ディーパム大祭」が始まった!!

この地における最大の行事である↓

http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/ramanasramam-holder/deepam/deepamfestival01.htm


大祭最終日の17日の日没時間に、アルナーチャラ山頂に聖火が点火されるのである・・・・まあ、そもそも今回の滞在の最大の目的は、5年ぶりこの「聖火を拝む!!」ことにあるわけで、いよいよクライマックスに向かい始めた・・・というわけですな。



そして本日で滞在も2ヶ月となった。


前半1ヶ月はかなりばたばたと忙しかった感があったのに対して、後半1ヶ月が身辺的には落ち着いていた・・・とはいえるが、


残念ながらあれやこれやと「頭の中で考えている」あれこれの命題の周りをぐるぐる周回してはいるものの、あんまり「深く静かに潜っていく・・・」という当初望んでいたような方向への動きにはならなかったようだ。


頭脳の方は日本にいるときよりは遙かに「高速回転」モードといえるのだが、取り組んでいる命題は複数あるわけで、天才ならざる身にとって実際に集中できるのは「その時点における1つ」である・・・こと自体は本質的に変わらない。


結局なんとか完成に持ち込めそうなのは、「虚構とリアル」論考だけになりそうだねえ(笑)。



聖火点火がクライマックスではあるものの、帰国はそれから約2週間先である・・・その後にもう一つのメイン項目である「南インド海辺の街3カ所巡り」があるからな。


今回この聖火点火がなければそろそろアルナーチャラを出て、1ヶ月くらいかけてその「南インド海辺の街3カ所巡り」をしたかったなあ・・というのが本音ざんすねえ、


この夏の江ノ島巡礼以来、「海洋性スピリチュアリティ」というのもまた抱いている主要命題の一つなのだ。


それについても今回の滞在中に文章化していくことを当初は考えていたのだが、予想外に「虚構とリアル」論考の規模が膨らんでしまって(笑)、これは帰国後の作業になることだろう。


まあその方が最後2週間の駆け足ながらも「南インド海辺の街3カ所巡り」のインプレッションがより深く反映されるであろう・・・と信じよう。



というわけで、前回の続きである。多分あと2回分位で完成の予定(笑)



本編 「虚構とリアル」論考 その7


こうして「同一化」の運動を通して、「私なるものの中味の物語」は所有物として果てしなく増殖肥大していく・・・そして本来「所有している対象」であるはずだった物語が、

いつのまにか「私自身を構成する一部」である・・かのように錯覚していくのである。


従って整合的に説明可能で、満足(その時点での)しうるだけの物語、それが世間にあっては「価値が高い」と評価されているもの・・・であればあるほど、

「私なるもの」自体が「高く評価されている!!」・・・という錯誤の感覚が生じてくるのである。



例えばそれは「ナショナリズム」であったり、「平和運動」であったり、「宗教」であったり、「スピリチュアル」であったり、「政治的信条」であったり、「市民運動」であったり、「スポーツ」であったり、「芸術」であったり、「学問」であったり、「ビジネス」であったり、「趣味」であったり・・・いやおよそありとあらゆるもので、そこに「熱狂的に」同一化しうるものである(「善悪美醜」などの諸価値はそれぞれの「世界の中」でしか機能しないのだ)



因みに、これらのそれぞれの「マジョリティのグループ」から「落ちこぼれる」人間はどの世界にも必ずいる。どの世界でもそれぞれにヒエラルキー構造を持っていて、最下層に甘んじることが出来ない・・となるとそこから逸脱していく。


だが、ほとんどの場合は逸脱したまま「個としてあり続ける」ことは出来ない・・・なぜなら我々は「どこかに所属」してないことには「内容としての物語」がリアルに生かされないので、何らかの関係性の編み目に絡まれいないと不安で耐えられないからである。


かくして「落ちこぼれ」群はそれぞれに寄り集まって、落ちこぼれ先よりも「下位だが同種のグループ」を形成していく・・・のだが、「落ちこぼれ」同士で連帯するということがないのですな、必ず再びその中でのヒエラルキー構造を構築し始めてしまうのだ(笑)


そしてやがてそこからまた「落ちこぼれる」人間が出てくる(単に「落ちこぼれる」だけでなく、支配権を巡る権力争いに負けるケースも多いのだが)わけで、やがて彼らはまた別のグループを構成し・・・・


と無限にこの運動は展開していく・・・のだが、要するに誰しもが何らかの形で「同一化」した物語の内容を、「私なるもの」それ自身として生きていこうとするのである(「落ちこぼれる」ても、「同種の身の丈にあった?スケールの物語」に適応させる・・ともいえよう)。



そして誰しもが「私なるもの」と「同一化」した物語を、所有からさらに「崇拝」するという絶対的行為にスライドさせることによって、「私なるもの」自身をより(物語自体のはらんでいる)「高み」へ登らせようとするのだ。



そんな風に我々は生きているのだから、何かの拍子にその「同一化」している「物語」に対して批判・攻撃が加えられると、たとえそれが論理的には正当なものであったとしても、到底許容できないのである!!



であるから、「40年前の美代ちゃん」を偶像(まさしく「アイドル」ですな)崇拝している・・(という物語を採用している)「私(なるもの)」にとって、「彼女を汚すようなスキャンダル」はあたかも自分自身が汚されたかのごとく「耐えられない」のである(笑)


冷静に考えれば、

「全く交流のない赤の他人の」&「既に40年近い昔の」&「すでにご当人にとっては整理がついているかもしれない」&「真偽を確かめたわけでもない2重伝聞」である話・・

であるはずなのに、私自身にそのようなスキャンダルが降りかかったかの如くに衝撃を受け、当惑してしまうわけである。



まあこれは単なる笑い話で済む・・・のだが、そうでない例は周囲に数多あることは今更説明するまでもないだろう・・・皆さんも試しに誰か知人の「熱狂しているもの」に批判的な意見を振ってみれば、その後の展開がどうなるか?は容易に想像がつくはずである。



我々日本人がとりわけこの主体と対象(というか知性と感情というか)の分別が苦手なことは有名で、「議論が下手」な理由もそれに大きな原因の一つがある・・・自分の「意見」が否定されると、あたかも自分「自身」が否定された・・ように感じてしまいやすいのですな。



実際問題として、「その物語自体の当事者として深く関わっている」人の場合は、仮にその物語が批判に曝されてもそうそう簡単には「怒り」の感情を露わにはしない・・・のではないだろうか?

(例えばこれは皆さんの「贔屓のスポーツチームのスキャンダル」などが格好の例かもしれない)


当事者として彼自身の言動が直接的にその物語の行方を左右する・・・よな状況では、その批判に対して少なくとも真摯に耳を傾けようとするだろう。

仮にその批判の方が正論であるならば、心理的には批判者に対して決して好ましい感情は抱けないにしても、その正論をどうにかして受け入れる努力・・すなわちその物語の「当事者」として、物語自体を「より良い」ものに改訂したい・・・という希望の方が優先されるのである。


だから批判されてすぐに感情的に爆発する・・・のは、むしろ案外「直接には全然関わりがない」人だったりするのではないだろうか?(笑)


・・自身には物語の「改訂能力」が無い以上、原理的にその物語に固執しなくては「私なるもの」を防衛出来ない・・・となれば、相手に対して感情的に爆発して応酬するしかオプションがないのであるから。



しかしそれでは果たして、物語の「直接的当事者」でなくてはその物語の内容に意味や意義は生じてこないのだろうか?


現に私の場合で例えたら、


クラシック音楽を「聴く」のが好きで、「感動して世界が開けた!」という体験が少年時代から現在にいたるまで繰り返し生起しているわけだが、

プロの演奏家との関わりは全然ないし、ましてやそれを作曲した音楽家(ベートーヴェンとかパガニーニとかブルックナーとか・・)なんて、皆さん100年から200年以上昔の人物である(笑)


いやいやもっと肝心な対象があるではないか!


一体ラマナ・マハルシとの関わりというのだって同じではないのか?


相手は63年前にこの世を去っているから、「直接的な関わり」は全くない人物なのである。


基本的には「残された写真や動画や対話の記録に接して、感動する・感銘を受けている」わけだが、それと「40年前の美代ちゃん」とどう違うというのだろうか?


だって「美代ちゃん」の場合も同じように、


「残された写真や動画や対話の記録に接して、感動する・感銘を受けている(その種類は確かに違うとしても「構造的」には同一である)」

・・・・わけざんすからねえ(爆)



次回に続く


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