今回も日本から数冊の書籍を持ってきた。
順次読了してきて残すところあと2冊、現在は「ドゥルーズ 解けない問を生きる」檜垣立哉著(NHK出版)を読んでいるが、それを読了したら最後は「道化の宇宙」山口昌男(講談社文庫)ざんす。
それとはまた別に今回は久々にジッドゥ・クリシュナムリティの代表作の1つである「生と覚醒のコメンタリー」第1巻(大野純一訳・春秋社)も平行して随時読書中。
これまで何度か書いてきたが、私の場合「教え」という意味ではラマナよりもクリシュナムリティに相当影響されてきたし、現在でも諸聖賢の中ではもっとも親しみやすい内容ではあるざんす。
この書籍にしてもかなり以前に読んでいるが、今回こちらに来る前に古本屋で500円で並んでいたので、久々に読みたくなって買い求めた次第・・普段は「100円本しか買わない」私としては「かなりの例外」である(笑)
で、やはり「現在の状況」にぴったりの内容に出くわした・・・・・
149ページ 自己防衛 よりの一説 「無であることへの恐怖」についての一連の叙述がそれである。
以降はそれを読んでの私のインプレッションざんす。
今まさに私の置かれている状況は、「無であること」への対峙ではないか?・・・それは同時にこのアシュラム生活における最大の契機でもある。
そしてこういうような形で、「アルナーチャラはエゴを根こそぎにする」のである・・・というか、「おまえのエゴはこのように無なのだ」をあからさまにに突きつけられているかのようだ。
いやしかしそれを「対峙」と捕らえること自体、すでに外れていないか?
それは「無なるものを対象化」するということであり、対象化することでその主体は「無であること」から逃れようとしているではないか!
その対象化することで無から逃れようとする者は誰か?・・それもまた無自身なのではないか?
さらにそのような洞察を「得た」私なるもの・・・という観念が一つの蓄積物に化するのではないか?
なるほど確かにクリシュナムリティが言うように、この無そのものに「いかなる理由付けは為される意味がない・・・この無はいかなる「思考の無限循環」とも隔絶しているからである。
しかしそれでも敢えて、その無に対して「恩寵」と呼ぼうではないか!!
なぜならそれは「もたらされるもの」だからである。
無が無として落ちるとき、恩寵はもたらされるのである。
盤珪さん曰く、「一切は不生の仏心にてととのふ」
以上。
しかしこれは現在掲載中の論考「虚構とリアル」にも深く関わってくる内容ではあるねえ・・・・・
というわけで、
「虚構とリアル」本編その3 なのだ。
「過去の記憶」なるものは程度の差こそあれ、「事実を元にして再構成された虚構」の物語として、ただし「リアルに」機能しているのである。
というのが前回の結論であった。
さてではこれを、個人としての「私という記憶」について当てはめてみるとどうなるか?
・・・ということになってくる。
一体この「私なるもの」、つまりは「私という人間」を言葉で表現しようとしたら、いかなる内容を語るであろうか?
逆に、「たった今のこの瞬間」の「私の内容」とは記述出来るだろうか?
もちろん不可能ではない、何か現状に「もっとも相応しい」単語一言で表現できる・・・わけだが、その「もっとも相応しい」というものは当然「複数の要素から選ぶ」ということである。
それが「象徴表現」であるならば(「氏名」というのはその最たるものであろう)、その背景には「広大なる内容」が控えているわけであるが、要するにそれが「記憶の蓄積という集合体」であることはいうまでもあるまい。
前回の日記の例を、「私の内容の記録」に置き換えてみれば判りやすいだろう。
「生まれてからの全ての経験」が完全にキープされていること自体考え難いし、仮に無意識なる領域に全てが保管されているかもしれない・・・としても、表層に立ち上ってくる「私の内容の記録」は常に限定的であるはずだ。
そして例えば「自己紹介」という機会には、他者に対して「私の内容」をその場に相応しく「物語る」ことになる。
その「物語」はどのように構成されているだろうか?
おそらく過去に体験された「複数のモチーフが関連づけられたシノプシス」・・それもエピソードという形で保存されているものを、更にその場に相応しく組み合わせたり装飾を施したりして表現されるのである。
また同時にそれは「対人関係」始め、あらゆる「関係」性において、その状況にもっとも「適切な」物語としての「私の内容」を発動させ機能させている・・・ということでもある。(ただし「適切」とはイコール「善」・「ポジティヴ」ではない)
つまり「私なるもの」の内容というのは、常に「過去の記憶の集積を元に構成されたドラマ」なのである。
事故にあったりして一時的に意識が混乱した人が、病院で目覚めたとき医者が最初にする質問が3つあるそうだ。
「今がいつなのかわかりますか?」
「ここがどこだかわかりますか?」
そして、「あなたのお名前は?」
・・・「いつ」及び「どこ」という質問は、例えば当人が失神してしまい、「知らないうちに」病院に運ばれたり、意識が回復するのに時間がかかった場合などは「正解」出来ないのだが、事態を説明されれば納得がいく。
これは、妙にリアルな夢から覚めたときなども、一瞬「いつ&どこ」が曖昧な状態であることは、日常的にもしばしば経験されることである。
「身体的存在」というのは、時間軸と空間軸の座標の中に特定されるので、「(現象)世界」の中で自分のいる位置の確認作業は、この「いつ・どこ」なのである。
そして、最後の質問の「あなたのお名前は?」
・・・これはつまり「あなたは誰ですか?」と問われているわけざんすね。
通常我々はこの「名前」というものに「私なるものの内容」を表象させているわけで(書物の内容と「題名」の関係と同じかな?)、この質問に正確に返答できれば、「意識は正常に回復した」と見なされるのだ。
もっとも名前というのは「純然たる記号としての配列」の記憶でもあるから、それ自体を「ど忘れ」することはあるらしい(笑)
で、もしもその名前が集約しているところの「私なるものの中身としての物語」の方が思い出せない・・・事態になるとこれは異常事態になってしまう。
いわゆる記憶喪失ですな、しかも「アイデンティティ」に特化している物語の記憶の喪失である。
これは大変困る事態なのだが、しかし「私なるものの内容」としての物語が欠落すると、何故「困る」のであろうか?
次回に続く
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