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2013年10月24日20:12

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梅雨空に水浴び

滞在日記 2013/10/24

ここ数日というものは毎日雨が降る。

南国の雨というと「スコール」というイメージが強いが、必ずしもそればかりとは限らない・・・・現在当地は雨季に入り、日本での梅雨空と同じようなお天気なのである。


幸い今のところ1日中降り続く・・というわけではないが、かといって晴れもしない。お昼頃になって少しばかり薄らいだ雲間から、かろうじて日が射してくる・・・けども長続きしないのですなあ。


こうなってくると洗濯物が乾き難くて困る・・ということもさておき(今回ベッドシーツ・セットが2組あるのは誠にありがたい)、日照時間が短いので「気温が低下してくる」のですな。

私の滞在しているゲストルームはアシュラム本体敷地内にある古い建物の中にあるので、バスルームは水しか出ない・・のだ。


そんなわけなので最近は、夜にギリプラダクシナから戻ってきて「水浴び」するのがね・・・ちょっと「気合いを要する」ようになりつつある次第(笑)

もっともそれは「最初の1発?」だけで、後は平気なのではあるけどね・・「気温が低下」といってもここは南インド、それでも20℃は切ってないだろう、就寝時でも「Tシャツ&パンツで薄い布一枚被る」だけでまだ大丈夫ざんす。


というわけで、いよいよ・・・?


「虚構とリアル」論考の本編ざんすよん!!



これまで長々と「偶像=アイドルの虚構とエゴとの関わり?」と題して「40年前の美代ちゃん」を引き合いに出して述べてきて、

「歌が下手だった美代ちゃん」という(真実の)記憶がいつの間にか、「音痴(=音程外れ)だった美代ちゃん」という「錯誤した内容」に書き換えられてしまった・・・のである。

というところへ収束したわけだが、この論考はここからが本題なのである
(当初の構想より長大化してしまった・・笑)、


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要するに、我々の記憶とは必ずしも「真実」に基づくものではなく、


「虚構として構築された」インパクトの強いイメージや物語の方に多大なる影響を受け、いつの間にかそのイメージや物語の方がメインとなって「事実化」してしまう・・・ということになると、


我々が日常生活の中で「常識」だと思っているあれこれの事柄についても、それらの「概念」それ自体が「記憶の蓄積」によって構成されている度合いが高ければ高いほど、「果たしてどこまでが真実であるのか?」と疑わしくなってくるのである。


もっともここで重要なことは、「真実であるか否か?」という「価値判断」ではなくて、「それが(真実ではなくとも)リアルなものとして機能している」という現象それ自体である。


引き合いに出した「美代ちゃん」についても、


私のような熱心なファンにとっては、「真実は『下手』ではあっても決して『音痴』ではない!!」と声を大にして叫ばざるを得ない?「重要事項」?であるが、一般人にとっては「下手」でも「音痴」でも大差はないわけで・・・(笑)


そこら辺は他にもあれこれあって、

大河ドラマとか映画などで「源義経」及び新撰組の「沖田総司」が登場するとなると、必ず当代の人気イケメン俳優によって演じられるけれど、資料によればご両人とも、

「とうてい美男子といえる容貌」ではなかった・・という方が真実らしいのだが(笑)


あるいは「忠臣蔵」はどうだろうか?


日本人なら殆どの人がご存じであろうこの物語ほど、史実としての事件概要よりもフィクションとして装飾されたイメージによって、「書き換えられた」ものが遙かに膨大である・・・ことは少し研究書をあたってみれば明白である(その著者自身が知らないうちに「書き換えられたイメージ」の影響下にある場合すらあるのだが・・笑)。


もちろんその真実がどうであるのか?・・・が重要なのは「歴史学者」位のものであって、


我々は「カッコよくてハンサムな義経や沖田」が活躍し、「華やかにドラマチックで浪花節的な」忠臣蔵のドラマに感動していれば良いのだが。


しかしながらあの「忠臣蔵のドラマ」に感動するのは我々日本人だけだ・・・ということは知っておいた方が良いだろう。

殆どの西洋人は「何故日本人はこの事件に感動するのか?」が心情的に理解しがたいのである。


なぜならばこの事件は西洋的な感性からすると・・・・


そもそも事件の発端となった「松の廊下刃傷事件」というのが、

「殿中での抜刀は理由の如何に関わらず死刑」という法令に背いた浅野の殿様が切腹(死刑)させられ、遵守していた吉良がお咎めなし(無罪)なのは「法治主義」からすれば「極めて当然の結果」であり、


「何の罪もない」どころか「直接的な被害者(「暴行傷害を受けた」のは吉良の方である)」に対して、謝罪するどころか「逆恨み」した挙げ句に「単なる私的怨恨」を晴らすために、


47人の浪士が「法的に正当な根拠」もなく、「明確な殺意」に基づいて故意に武器を準備して徒党を組んで個人宅に強引に侵入し、器物破損・暴行・傷害・殺人未遂および殺人・遺体損壊に及んだ後、投降して裁判の結果全員切腹(死刑)したテロ事件

・・・というだけなのであって、そこに「感動する」要素はないのだ。


第一恨みを晴らすべき相手は論理的には本来、「そんな法規(殿中抜刀は死刑)を作った上、お家『とり潰し』によって全員解雇に至らしめた」、徳川幕府そのもの(その代表としての時の将軍・徳川綱吉)のはずである。

筋から言って「討ち入り」すべきは本所吉良邸ではなく、江戸城であるべきなのだ。


・・・なのに日本人はどうして、「加害者」である浅野&大石一党の方にシンパシーを感じ、非業の死を遂げた「吉良の殿様」に同情しないのか?


(なので「日本人の忠臣蔵好き」を英語で説明できる・・のが本物の国際人としての英語力だ・・と言われたりするそうな)


そういう意味では「単なるテロ事件」でしかないはずのものが、どうして日本人の感性では美学に昇華されるのか?・・・という問題をはらむわけで、(もっとも日本人から見ると「十字軍」や「ジハード」でさんざん人を殺しておいて、それを「宗教論理的に正義とする」感覚は理解し難い)


またそれが日本人の美学的感性であるが故に、それに沿うように「記憶が改変される」現象が起きるわけでもある(例えば「領民の評価」では実際には吉良の方が「名君」で、浅野家は「暴政」だった・・・ようなのだが)。



義経や沖田もまた然り、彼らの生涯の様相(華やかな活躍と非業の死)が日本人の美学的感性に激しく訴えるあまり、「不細工な容姿」という真実は敬遠され、人気イケメン俳優が演じることが歓迎されるのである。



さらにはもしかしたら、天皇制における「万世一系」というものもその一例なのかもしれない。(あらかじめ明言しておくが、私は陛下及び皇室を崇敬する者の一人である)

・・・おそらくは「かなり右寄り」の方々以外、皇室を崇敬していてもこの「万世一系」については「絶対的真実」とは思っていない・・のではないだろうか?


ここでも重要なことは、「万世一系」が生物学的なDNAレベルで真実なのか否か?・・・ではなくて、

「万世一系」という概念が現実の「天皇制」の権威の根拠として「リアルなものとして機能している」ことで、総体的な日本人の感覚として「収まりがつく」・・ということにあるのだ。


そのことが中空構造的な「日本人的感性」と不即不離の、古来からの関わりとして機能しているからには、せいぜい100年強ほどの歴史しかない「左翼思想」がどれだけ頑張って天皇制を批判しても、あんまり効果はないのですな(笑)



ではどうしてこのような、虚構に対してリアリティが付与されて、記憶の蓄積としての概念が改変されていく・・・ということになるのであろうか?

それは「記憶」するという営為自体が、実際は「物語」というスタイルと「構造的に密接な関係」になっているからである。



次回に続く。

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