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2013年06月18日14:58

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【第3部総括】観客が舞台を巻き込む芝居

どーもどーも高野です。

今回はまったく何の事故もなく、みなさん呑気に笑ってお帰りだったようで、ホッとしております。世界の奥の向こう側は見えましたでしょうか。ご来場ご出演、まことにありがとうございました。(^.^)

暁方ミセイさんが帰りしなに「これまで演劇というのは真面目に見なきゃいけないものだと思ってたし内輪の集まりに出ても結構険悪だったりして苦手だったんだけど、こんな穏やかなコミュニティがあるんですねえ」(大意)と言っていて、僕はそれに「僕らは舞台と客席の境目をとっぱらうことを共通の目的にしてるんで、自然と仲良くなるんです」と答え、言ってから自分で成る程なあと思いましたw

2005年に、それまでの単なる野外劇から、風景の紹介者に徹するメソッドに僕らは方針を切り換えました。最初の演目は劇団12・和風レトロ・みやしろ演劇パーティー共同上演「がむしテラス」でした。空間知もジョジョ劇も、ここから始まっています。

と言ってもはっきり空間知という用語を使いだしたのはわずかに今から1年あまり前で、それまではもっぱら身体の自己検証、ないしマンツーマンのコミュニケーション技能を学んでいました。こういうのには先達がいっぱいいてそれなりに成果も上がるし振り返ればやった意味はあるんだけど、しかしいくら気功やNLPや合気に通じてもそれを「見せる」人にはなれない、という段階でつまづいたんですね。浅薄なショーや演武をやっても仕方ない。僕は観客と「ともに」ありたいのです。それが僕の演劇における最大の固執です。

そして意外にもというか無論というか、現代演劇もまた、観客とともにあることについて敏感であるとは言いがたいジャンルだ と僕は考えています。少なくとも、あのグルーヴ感を説明する理論を持った実作者には会ったことがないんですね。李禹煥がもの派を説明する明晰さで舞台と客席とスペースを説明できる日本語は、まだない。これ、ほんとに何とかしないと現代演劇はマジで一過性のトレンドに堕しますよ。

震災は否応なしに僕らを本質的であるべく強要しました。根拠と意志と行動がひとつのものであるべく強要しました。僕が「遭難した船長の遺言」と「うなぎなってるあたり」を書き「おじや☆ダンス」「イギリス海岸」「モンドリアンの生涯」「詩とは何か」「音信不通の姫」「チロルの秋」とすべて震災にまつわる芝居を打ち続けているのはそれらを選んだからではなくて、選択肢なき選択だったからです。

「イギリス海岸」は、教師である賢治が生徒たちを北上川へ泳ぎに連れていくのだけど、生徒たちを守っているのが本質的には教師ではなくかつて幾度もこの地を破壊し尽くした地殻変動や造山運動であることに思いいたり打ちのめされる話です(そこでマーラーの「巨人」を掛けたw)。あの石ッコ賢サが作中関東大震災に一度も触れない不思議がよく語られますが研究者はどこに目をつけているのか。数万年規模の復興プランを賢治はイギリス海岸でちゃんと書いています。震災直後にね。

歴史とは人の時間軸で語れるようなものではありません。歴史の一部に人がいるのだと考えなければほとんど何も見えてはこない。詩情とは、歴史の途中でなぜか歴史認識を欠いた己れという座標を生きてしまっている自覚と、ほぼ同義です。世界の穴として孤独に立つのが表現者の原点です。

自分の中には何もない。すべては外に。自分はそれらモノどもの尾を取ってヲドルだけマネルだけ。そのことを最初に文字にしたのはミケランジェロですが、すべからく芸とは要するにそういうこと。私を見せるのではなく世界を見せるのね。

そして、もっと言えば。

俳優は物語を演じるのではありません。そのことは僕ら、キッパリやめた。おとといの出演者9人いましたが、誰一人、登場人物を演じたりしてません。見てて感情移入とか起きないと思う。ストーリーを書くのもやめました。外部作でさえ、虫たちの日、チロルの秋、烏江、どれもストーリーなぞろくにない。劇を演じない。そういう演劇祭です。じゃあ俳優はなんのためにいるのか。俳優は何を演じるのか。





俳優は、観客を演じるのです。





これが答え。

こういうことです。舞台においては、俳優は見られるためにいるのであって、見せるためにいるのではない。見せるものが俳優のなかにないならば、それはどこにあるか。風景と観客にあるのです。そして俳優は観客と風景のあいだに立ち、ハーフミラーのように、風景を透影しつつ/観客を反影する。建築や吹き抜けた背景の集合と変化が野外劇を刻々変えていくように、観客の集合と変化もまた劇を刻々変えていく。変えていく主体が観客であること/グルーヴ感の源泉であることを観客は知らないから、それに無意識のうちに気づかせ主体となれるよう、観客の反応を適切かつ柔らかく受けとめ、少しだけ誇張して変わってみせる。風景の魂と観客の魂が交換可能なように舞台上で調整してあげる。「二つの夢が重なりあう。ただ、それだけ」(チロルの秋)。それが俳優の仕事だと、僕は思います。

整理すると、こうなりますかね。空間知メソッドの基本構造です。

1.観客が舞台を取り込むベクトルへの信頼
2.それができる観客になる道筋をつけるための俳優とメソッド。
3.それらのやりとりを抱摂する建築と風景。

ーー今回、烏江を稽古しながら何度も何度も確認し合ったのは、とにかく観客の頭上に?がいくつもいくつもピコンピコンと浮かぶようにしよう、ということでした(笑)。ストーリーや感情の流れを追うことをええかげんあきらめ、受動性を放棄したときはじめて観客は、ユルユルに揉みほぐれた主体として、好き勝手に自分の見たい芝居を見始めるだろう。その銘々の内面に広がりがあればあるほど場は豊かになりみんな少し幸せになって帰っていくだろう。そのために僕らは世界に散らばるイメージの断片と/アホアホな笑いだけを舞台に乗せよう。そういう狙いだったんですが、どうでしたかしらね。(^.^)







【追記】

あ、あと、特記事項ですが、やっぱミセイさんですよ。単語や行替えや句読点の乱反射がじつは壮大なアジアの風景と通低しているという暁方ミセイ詩群の大構造。この1年くらい、彼女がポエトリーリーディングにおいて空間知の身体を身につけたら大変なことになるぞ、と興奮しどおしでした。当日もリハが30分しか取れないという状況のなかわずかにふた言みこと、深呼吸して、こっちの方を向いて、読み終えた原稿用紙は枯れ葉のように捨てて、くらいのサジェスチョンでおそらく人生初芝居の人があのクセモノしかいない舞台(笑)に見る見る馴染んでくるとは。逸材すぎます。ありがとうございました♪(^o^)/
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