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2012年09月02日21:58

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「ごみを捨てる」喩えについての反論?

一昨日の朝のこと、ある夢を見ていてその内容に「感情が昂って?」思わす目が覚めてしまった(笑)

内容は書き出すと長くなるので省略するが、とにかくそこで展開されていた状況に対し

「ああ、うらやましい!!・・・(そしてそれを傍観するだけで自分がその当事者でないことに)ああ、悔しい!!」

という現実生活では最近あんまり体験していない?強烈な羨望と悔しさの感情で、覚醒して最初に去来したのは、

「ああ、今からでもこれをやらなくては、何とかできるはずだ!!」

というもので、どこか自分の人生の失敗した局面に対する「リベンジ」という感情も否定出来ない感じだった(笑)。

で、これをきっかけにして昨日来あれやこれやと、「精神分析的アプローチ」を展開しているのだが、たぶんこれは先日の日記に書いた「疑団・公案を突き抜ける」ということの強力な端緒になるだろうという手応えを感じている。

今回の滞在も残り2週間を切った・・・週発前頂いた「滞在許可」は45日だったので、あと2週間の「滞在延長」を申し出て許可された、誠にありがたいことである。


さてさて閑話休題、「精神分析」といえばユングの果たした業績は今更語るまでもないのだが、彼がラマナの存在にも大変興味を示し、あるラマナ関連書籍の出版に辺り「巻頭の辞」というべき一文を寄稿しているのは有名な話だ。これは日本語翻訳でも山尾三省訳の「ラマナ・マハリシの教え」(めるくまーる社刊行)の冒頭に収録されている。

もっともユングとしてはラマナの教えそのものに興味を抱いたのではなく、その存在自体に対する興味であることは言うまでもない・・・ユングのアプローチの中で重要な概念として「アーキタイプ(元型)」というものがあるが↓

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B


その一つである「オールドワイズマン(老賢人)」というイメージに、ラマナは正しくぴったりはまるからなのですなあ。

ところでラマナだが、「精神分析」についてはあまり評価していないようで、有名な喩えとして、

「ごみ(エゴ)を捨てようと思う人にとって、そのごみ(エゴ)の中身をいちいち調べたり分類する必要はない」

というものがあるのだが、これなどはユングが聞いたらさぞかし困惑することであろう(笑)


さてさて「精神分析」大好き?な私にとっても、このラマナのお言葉は悩むところなのだ・・・信奉者としてラマナのお言葉に「無意味無駄は一切ない」ことを確信しているだけにねえ。


で、敢えてこのお言葉に反論的考察を試みたいのだが、まず一つにはこれは直接的な内容を示しているのではなく「喩え」であり、それがそのように表現されるにあたって、ラマナが身体的存在として在世中の時代と文化の制約の中での喩えである・・・ということがある。

ラマナが身体的存在としてこの世におわしましたのは(信奉者にとっては「生きていた」という表現にはかなり抵抗があるのでこういう表現になる)1879年〜1950年、19世紀終盤から20世紀半ばにかけての南インドである。

この時代の南インドの「ごみ処理事情」とはどういうものかといえば(それは現在にも一部通用している)、ほとんどのものをそのまま外に捨てても問題はなかった・・・のですな。

例えば茶碗などは素焼きの土器で作られ、一回使ったら地面に叩きつけて壊していたし(これは私が最初にインドに旅した頃はまだ残っていた)、食べ物の皿はバナナやハート菩提樹の葉っぱを使用する(現在でもアシュラムではこれが使われている)・これも一回使ったら捨ててしまうのだ。

素焼きの土器は壊れればそのまま土に戻るし、残飯は動物たちが処理する・・・特に葉っぱ類は牛が食べてくれるのですな(包装に使われた新聞紙ほか紙類も同じ)、その牛たちが排泄したウンチは人間の方が拾って、藁や泥などと混ぜて円盤状にして天火で乾かせば「牛糞燃料」になるのだ!!(これも今でも田舎の方では使用されている。

まあ江戸時代の日本同様、「完璧なリサイクルが確立していた」といっても過言ではないわけざんす。

だから現代のように、ごみを捨てるにあたって詳細な分別をする必要がなかったのですな。


それから、「捨てる側」の問題ということも検討してみよう。

ラマナのお言葉の喩えは、「ごみを捨てようと思っている人」という規定がある・・・その人は明らかに「それをごみだと理解できている」のが、この喩えの大前提である。

しかし果たして現代の我々には「それがごみ(エゴ)である」と理解出来ているかどうか?・・・あるいは何がごみ(エゴ)としてあるのか?」を、しっかり認識できているか?


という疑問があるのではないだろうか?

そこを調べていこう・・・という時に、「精神分析」的アプローチはかなり有効に働くツールではないだろうか?

と同時に、「どこに捨てようとしているのか?」ということも重要な視点である。

大昔のインドのように「全部まとめて家の外に捨てる」ならさておき、

「自分の家の中のゴミ箱」にごみを捨てたとして、それはこの喩えが指し示す真実とはまったく事情が異なるのではないだろうか?

「自分の家の中のゴミ箱」に捨てたごみ・・・確かに一時的に「家の中」は綺麗になるだろうが、そのままでは当然時間の経過と共にそれは腐敗が始まる・・やがて蛆がわき蝿になって・・・結局「家の中」の衛生状態を悪化させていくわけだ。


まあ、こういう風に考えると、あれこれのセラピーとかヒーリングなどもそれが「適切に機能した場合」は、大いに意味があるではないか・・・要するにそれは「家の中のゴミ箱」の中身を外に出して「適切に処理する」行為となるからざんすね。


だからそういう観点からみれば、ラマナのお言葉に異議を唱えても不適切ではないのだ!!

しかも彼は「ごみ捨てる」以前に、

「そのごみはどこからやってくるのか?」

を探求しなさい・・・と」おっしゃっているわけざんすよん!!
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