ふとこんなことを考えた。
「過去は過ぎ去った事象に対する想念でしかなく、未来もまたいまだ到来しない事象に対する想念でしかない」
だから、現在と言う「今・ここ」に置いて、過去や未来に対して「想いを馳せる」のは実質的には無意味無駄でしかない・・・・という考え方がある(それは「教え」と言っても良いだろう)。
さて一方でこのラマナアシュラムにあっては、
「何もしない」ことを学ぶ場所だ・・・・と言っても過言ではない。
事実ここには一切のカリキュラム・・・レクチャーも実技セッションもセミナーも、とにかく何もない。
またゲストルームに宿泊をしていても、例えば「起床・消灯時間」と言うものが定められているわけでもない。
守らねばならぬ時間は唯一「食事の時間」だったりする(大食堂で一斉に給仕されるので)。
とまあそういうところであるからたまに日本から来たヨーガの先生などからは、
「すみません、ここで何をしていたら良いのでしょうか?」
などと真面目に質問されたこともある。
逆に言えば「何をしていても構わない」のであるが(もちろんインドの宗教施設として要求される常識的マナーというものはある・・それを遵守する必要があることは言うまでもない)、折角ここに来ているのだから?
あえて「何もしない」ことを学ぶ・・・のも大いに意義があることだろう。
以前通っていた」身体技法の先生が、
「念が残る・・・ゆえに残念というのだ」
と言われたことが大変印象に残っている。「残念な結果」というのは結果の内容ではなく、その内容に対して「念が残る」ことを指すわけですな。
例えば人が死のうとするその瞬間に、何かに対して「念が残る」と言うことがあるだろう・・・それが強烈であればその「想念」がリアルさを獲得することもあるわけで、霊能力者という人たちはそこに敏感に反応するのだろう・・・と私は解釈している。
さて最初の命題で、
現在と言う「今・ここ」に置いて、過去や未来に対して「想いを馳せる」のは実質的には無意味無駄でしかない
と提示したが、それに加えて「今・ここ」において、敢えて「何もしない」ことを学ぶ・・・・
であるとしたら、その時いったい「私なるもの」とは何なのであろうか?
一昨日の夜、ヨーガアーサナが終了した後で(最近「歩く日」以外は夜時間にアーサナをやっている・・晩御飯は「フルーツ&ミルク」のみ)、ふと・・・・
「ははあ・・・仮にこのまま死んでも特に私自身に関してはあんまり未練はないなあ・・・」
と感じてしまった(笑)、もちろん実際には困る問題はあるし、特に順番的には「母を見送った後」でなくてはまずい。
しかしながらもし私に「現世での成せねばならない任務」があるとしたら、おそらく唯一それは「母を先に見送ること」であろう・・・と自覚しているわけで、多分それ以外には「残念なる事態」は」ないのではないか?
・・・と言う風に思ったりもするのだ。
神様にすべてを明け渡す・・・というのがバクティ(ヨーガ)の真髄であるのだが、
「私は『神様にすべてを明け渡す』ことをモットーとしたバクティヨーギである」
と言う風に「アイデンティティ」化してはならないのだ・・・なぜならそれは「私と言うエゴ」の中身に過ぎず、そこに想定されている「神様」とは、「エゴが対象化した」想念でしかないからである。
ラマナは「神について」は質問者の背景に応じて様々な表現をされているのだが、私が特に「お気に入り?」なのは、
「神は対象化できる存在ではない」
「放棄とは本源に身を委ねることである・・・その本源が「外部にある神」であるというようなことに惑わされてはならない」
と言う辺りであるのだが、であるのならば、
「対象化できるような『外部にある神』」ではない本源に身を委ねる・・・ことがバクティの真髄ということになる。
またラマナは次のようにも語る・・・
「所有物を放棄するのではなく、『所有者である』という想いを放棄しなさい」
うううむ・・・何を書こうとしていたか分からなくなってきた(笑)
智慧という剣で「想念を切る」・・・これが多分ジュニャーナ(ヨーガ)の日々の修練と言えるかも知れない。
「今・ここで『想念を切る』」・・・あるいはこれがこの地に滞在する最大の意義といえるのかもしれない。
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