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2010年10月04日01:02

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立脚点

このところヨーガ関連および劇団のワークショップや公演稽古、そしてその合間を縫って活動資金稼ぎの仕事(製氷工場での夜勤)という具合に結構どたばた動き回り、ほぼ毎日のように東京方面に出かけていた(まあ、だから活動資金が底を着きそうになるのだが・・笑)。

ということもあってちょっとこの辺でゆっくり休みたい・・・と感じて、今日は久々に近くの(と言ってもチャリンコで約15分)スーパー銭湯に出かけてのんびら心ゆくまで湯に浸かってきた。

お天気も若干曇りがちなれど時折日が差していて、サウナの後に露天風呂に入りそのまま外でぼんやり寝そべっていてもまだ大丈夫な気候でもある。

やあ、誰しもそうだろうがこういう状況こそ「至福の瞬間」ざんすね!(笑)


そこへもってきて私という人間は思いっきり「至福体質?」な奴であるから、ずばばびゅ〜ん!!!とぶっ飛んでしまい、しばらく法悦境に遊んでいたざんす。


さてさてヨーガというものは、昨今はありとあらゆる種類のものがあまりに世間に喧伝され「何がなんだかよくわからない」というような状況ざんすね・・・実際問題として「玉石混交」なのだが、これからヨーガをやってみたいという方だけでなく、ヨーガの先生自身が「実はよく分かっているとは限らない」・・かもしれない(笑)


かくいう私も決して「よく分かっているとは限らない」・・・のであるが、

やはりこの「至福」というものは「お気楽脳天気ヨーガ」にとっては最大級に重要視しているものである。


私はラマナ=アルナーチャラに対する「バクティ・ヨーギ」であるのは明白である・・・ということで、必然的に彼の「比類なき臨在の恩寵」の元に生かされ在る、という至福を常に意識していると言っても過言ではないのだが、これは私のいわば「直覚的体験」に基づくものなので、


「どうやったらその至福をリアルに体験できるようになるのか?」

という方法論をヨーガ・レッスンの目的にすることは残念ながら出来ない・・・「バクティ・ヨーガ」というのは技術体系ではないから「HOW TO」的に教授することはそもそも不可能なのである。


この至福は「獲得するもの」ではなく、獲得しようというエゴの働きが止まる時に「もたらされる」ものである。


かくして、「エゴの呪縛を解き放ち、新たなる地平を拓く」ということが「ヤマトアンナマライ」のレッスンの目的なのざんすね、そして私はそれを

「喜ばしき全体性としての、それを回復する為の」レッスンである・・・と称している。

ということで、「お気楽脳天気ヨーガ」は、美容・健康・ヒーリング・リラックス・スピリチュアル・・・といったことのそれそのものの追求・探求ということではなくて、


それを志向している「私」そのものを「想念の鎧」から解放して、「新たなる視点」の元にそれらのあれこれにアプローチしてみようではないか!!

というのがレッスンの目的であるから、古典的なまでにインドチックな「正統派道場系」でもなければ、ファッショナブルな装いに包まれた「フィットネス・エキササイズ系」のどちらでもないのだ(笑)



あのオショー・ラジニーシが何かの本の中で語っていたことだが(正確な引用ではない・・私の解釈が反映している)、


>>極端なまでに自然から分離され、「効率重視に合理化された先進諸国の現代社会様式」の中で、「無自覚的に生活している」我々がどれだけ伝統的な行法を修行してもムダである。

何故なら我々の心身状況事自体が、「伝統的行法が開発された頃に生きていた人たち」のそれとは比較にならないほどの天地雲泥の差にあるからだ。

我々現代人は、とてつもなく肥大したストレスと想念の鎧にがんじがらめになっていて、その心身状況のままでは「創始者達が発明した技術」をそのまま運用しても、彼らが達成した世界にはアプローチ出来ない。<<<


・・・とまあそのようなラジカルな見解で、オショー・ラジニーシは「ダイナミック・メデテーション」始めとする様々な、「とてつもなく肥大したストレスと想念の鎧」をまずぶっ壊す・・ためのあれこれの技法を創出した・・らしい。

私はオショーそのものは特に好きではないが(むしろクリシュナムリティに多大な影響を受けているし・・笑)、この見解には激しく同意するのざんす。


また同時に深層心理学的な「私」なるものへのアプローチも同時に進行させることが望ましいだろう、とも考えている・・・というのは、

美容・健康・ヒーリング・リラックス・スピリチュアル・・にアプローチしていくのは大変結構なことだが、それ以前にその「美容・健康・ヒーリング・リラックス・スピリチュアル・・」という言葉・概念に、自分の中の何を投影しているのだろうか?


この命題を少なくとも同時進行で問い続ける必要があるのではないか?・・・・


そのためには先ず自分の深層に蓄積された「恨み・怒り・悲しみ・罪悪感などなど」をひたすら冷徹に見通す、見透かし明らかにしていく・・という営為が求められる。(私はそれを「プレ・ジュニャーナ」と呼んでいる)↓

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1296575460&owner_id=1057202


例によって長くなってしまった(笑)

今年に入って「ラフターヨガ」に出会って、これは「とてつもなく肥大したストレスと想念の鎧」をぶっ壊すには極めて簡潔かつ効果的なメソッドでもあると実感したし、

既に4年のお付き合いとなるTAICHI−KIKAKUの「身体詩ワークショップ」の中には、深層心理学的なアプローチを演劇的技法で展開する技法があれこれあって、大変勉強になるのざんすよん。


こういうメソードをも縦横無尽に取り込んでいこう!・・・というのが私のヨーガに対する立脚点なのざんすよん。

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