例えばインド哲学の学者さん辺りが解説している「バクティ」というものについて、個人的にはちょっと不満足を感じざるを得ない。
確かにそれは「神様への愛」であるし、そこに自分の一切合財を捧げるある種の「犠牲的?精神」という面も確かにあるだろうし、あるいは「神様のもたらす試練」に耐え抜く・・・なんてのもないわけではない。
ではあるのだが、これって恋愛で言えば「単なる片思い」とどう違うのだ?・・・と感じられてならない・・・・実際そのままではうっかりすると、「片思いしてる私」に「マゾ的に自己陶酔」してるだけじゃないのか?(笑)
さてさて、言うまでも無く私は「バクティ・ヨーギ」であるが、その立場から言えば、
「バクティ」というのは本来、「両想い」
なのざんすよん!!
自分は神様から絶対的に愛されているのだ!!という確信と、神様というのの「比類なき恩寵と臨在」をリアルに感じられる・・・が故に、
「もうこうなった日にゃあ、自分の存在の一切合財丸ごと全体すっかりお任せしちゃうざんす!!」
という心境になるのざんすよん!!
ところで先日の日記では、ギリプラダクシナの定力・・・ということを書いたのだが、それ自体は事実であるにしても、決してそのことが目的でやっているのではない・・・ということも書き足しておきたい。
たまたま私は自分の通算回数を勘定しているのだが、真摯な修行者ならいちいち勘定などはしないものだ・・・まあやる側にとってはなんとなく「励みになる」ざんしょ?(笑)
例えば今誰かが大変困難な状況に直面しているとする(当人が自覚しているいないに関わらず)。
さてお前の命と引き換えに、その人の困難を解消してやろう・・・と悪魔が囁いたとして、さすがに「どうぞ!」というだけの根性は持ち合わせてはいないのだが、「250回分の定力」と引き換えよう・・・だったらならば、そんなものはいくらでも悪魔にくれてやるざんすよん!!
もっとも悪魔はこれを使うことは出来ない・・・というのは神様が私に貸し付けてくれたものざんすからね(笑)、だから実際は神様に返納するだけのことだったりする。
先日の日記だと、定力ありてこその「お気楽脳天気!」みたいな内容になってしまったが、実はそれではまだまだケツが青い・・・・
へっ、「定力」なんぞ無くたって「お気楽脳天気!」ざんすよん、欲しけりゃもってけ泥棒!!
更には、「神様の比類なき恩寵も愛も・・・」、欲しけりゃ持ってけ!!・・・俺はそんなものを「頼りとして」神様と付き合っているわけじゃないざんすよん。
天地の間一切合財何も無くなって、「私」すらも無くなり、「神様」すらも無くなったとしても、
ただそこに「お気楽脳天気!」が残っている・・・・(爆)。
まあ多分こういうのが、「天真なるお気楽脳天気!!」なのざんすよん。
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