昨夜のギリプラダクシナは、通算250回目であった。
当地への2度目の来訪となった97年の2月の満月の夜に、故・柳田先生に案内して頂いて歩いたのが最初だった・・・・以来、これまでの歩きは全て「裸足&リタイアなし!」というのがちょいと自慢だったりする。
さあいったい自分の生涯の通算回数はどのくらいになるのであろうか?
柳田先生は約700回歩かれたようだし、現地在住22年半のMさんはおそらく1000回越えされていることだろう・・・・さすがにそういう域には到底追いつけないが、まず次の目標は300・・・最終的には500回歩けたら上出来!!といったところだろうかしらん?
もっともこれは「座禅」と同じで、何回やったからそれで「解脱できる!」とか「特別な(霊)能力が備わる!」といったようなものでは決してない、そのような「功利的な目的」「マニュアル的なハウトゥ的思考」を突き抜ける為に、この場合は「只管打座ならぬ只管打歩」として歩く!!
ということが「行法としての」ギリプラダクシナの最大の意義である!!と私は感じているし、ある面においてはそれはラマナ=アルナーチャラへのバクティの具体的実践でもあろうかと思う。
昨日はご案内業務も兼ねて、大分の青年と札幌のヨーガの先生を案内して3人で歩いたのであった、例によって私の「べらべらと流れる無駄に長いお喋り」のガイド付き(爆)
・・・まあ本来は「想いはアルナーチャラに集中して不動」の状態で歩くのが本義・・故にラマナは「歩く瞑想」と位置づけられて、事あるごとに信奉者たちに勧めていたし、ご自身も身体壮健な時分までは歩かれていた(途中にラマナが休まれていた橋があって、現在でも「バガヴァン・ブリッジ」と呼称されている)。
まあ独りで歩く時も、どちらかといえば頭の中は雑念で一杯・・・「素敵なおねーさん達とうふふん
したいざんすねえ!!」なんてことばかり妄想しながら歩くことが殆どだったりして(爆)
それでも良いのだ、「まあ、とにかく歩け!!」なのざんす・・・どっちみち「エゴが思い描く妄想」はこの御山に根こそぎ取り上げられてしまうざんすからねえ!!
もっともやはり座禅を積み重ねると、いわゆる「定力(じょうりき)」とでも言うものがなんとなく備わるように、ギリプラダクシナも回数を重ねていくと、同じようなものが自然に備わってくる・・・様な実感は確かにある。
まあそんな大げさなものではないのだが、「根拠なき自信」「単なるくそ度胸」みたいなものざんすね、私流のギャグで表現すれば・・・
「包丁で刺されてもお気楽脳天気ざんすよん!!!(爆)」
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