私
濱田 覚(はまだ さとる:1959年5月12日大阪市生れ〜 )
は
第3哲学専念期
〔第1哲学専念期は1984年6月中旬(25歳1ヶ月)から
1992年3月(32歳10ヶ月)までの7年9ヶ月間。
この期間に「宗教体験(Visio Dei=見神体験)」を経験
(1990年11月5日午前=31歳6ヶ月の1週間前)。
第2哲学専念期は1994年4月(34歳11ヶ月)から
2002年3月(42歳10ヶ月)までの7年と11ヶ月間。
この期間に「哲学概念図(4種)」作成(後述*)。
それから24年と1ヶ月半の時
(この期間のうち
京都大学と京都大学大学院に2002年4月1日から2021年3月31日まで
途中休学4年間を含めて19年間在籍)
を経て
令和8(2026)年4月16日より第3哲学専念期〕
に
入ったことを
宣言し
自分自身を
「哲人28号」と
称することを
ここに
宣言する。
「哲人28号」
とは
もちろん
「鉄人28号」
への
オマージュである。
自分自身を
「哲学者」と称するのではなく
「哲人」と称するのは
自分が「学者(研究者)」と称するほどの
資格を持たない
〔ダブルマスター(関大で文学修士号と京大で教育学修士号は取得済)では
あるけれども、博士号を一つも取得していないので研究者と称する資格を持たない〕
が故である
と同時に
(「哲人」と称する理由は)
自分自身が
「哲学創造に向く素質を持って生まれついている」
と判断しているからだ。
それは
これまでの人生が
如実にそのことを証明している。
いくら
哲学創造以外のことを
(生活の必要上仕方がないとしても)
行っても
必ず
「哲学に専念しなければならない状況」
へ
戻ってくる
からだ。
なので
腹を括(くく)って
「哲学では食えない」
という常識に抗(あらが)って
哲学に専念し
哲学のみで生きてゆく生き方
(だからといって何か方法を持つわけではないのだが)
に入る決意を固めた
ということを
宣言するのだ。
私の活動の
主たる場は
YouTube動画
「シェリング『啓示の哲学』ベルリン大学講義」シリーズ
〔令和8(2026)年6月1日現在
(1)〜(176)まで〕。
これまで書いた論文は
公的には7本。
(1)2014年4月1日
「カントにおける反省的判断力の自己自律原理について
ーシェリングの積極哲学および西田哲学の場所論の生成原理としてー」
『場所』第13号、西田哲学研究会(東京)編、127〜142頁。
(2)2014年9月5日
「ホワイトヘッドとシェリングの認識=存在論
ー両者の立場としての双極的相依性の共通点と相違点ー」
『プロセス思想』第16号、日本ホワイトヘッド・プロセス学会編、181〜195頁。
(3)2015年3月31日
「自律性療法(心身医学)と後期シェリングの神話と啓示の哲学」
『身心変容技法研究』第4号
(身心変容技法の比較宗教学ー心と体とモノをつなぐワザの総合的研究年報)
京都大学こころの未来研究センター 身心変容技法研究会 発行、159〜167頁。
〔この論文が2021年3月30日発行の『身心変容と医療/表現〜近代と伝統』
に収録してもらった同じタイトルの拙論(ただし内容は推敲を加えて6年間の
研究成果を踏まえて可能な限り改善してある。特に註の最後(227頁)には
今後の研究構想が記してある)に繫(つな)がる。〕
(4)2015年7月4日
「神話と啓示が齎(もたら)す帰結としての「Existenz」
ー「不可知(Nichtwissen)」を学問する積極哲学の方法的原理」
『シェリング年報』第23号、日本シェリング協会、103〜113頁。
(5)2016年4月1日
「純粋経験批判としてのシェリング積極哲学の方法と原理
ー哲学と宗教を学問する『啓示の哲学』を中心にー」
『場所』第15号、西田哲学研究会(東京)編、103〜120頁。
(6)
2016年8月15日
「哲学は科学と宗教を媒介し得るのか」
『東西宗教研究』第14・15号、東西宗教交流学会発行、51〜76頁。
(7)2017年4月1日
「科学と宗教を媒介し得る〈自律性無底哲学〉の可能性
ー自律性療法とシェリング積極哲学に方法と原理を索(もと)めてー」
『場所』第16号、西田哲学研究会(東京)編、75〜126頁。
共著が1冊ある。
『身心変容と医療/表現〜近代と伝統』2021年3月30日
日本能率協会マネジメントセンター発行
第2章「多様な医療における身心変容技法」211〜227頁
「自律性療法(心身医学)とシェリングの神話と啓示の哲学」。
上記の共著
『身心変容と医療/表現〜近代と伝統』2021年3月30日発行
の書評(当時東京大学大学院生だった「稲村めぐみ」さんによる)は
こちら。
*前述の4種の「哲学概念図」
(第2哲学専念期に作成した宗教体験の内容図)を示します。
〔これらの写真はまだ iPhone を買えずに居た2009年6月12日頃に
デジカメ(「世界最小最軽量」が謳い文句の Pentax Optio S4i〕で撮った
Apple Power Mac G5 の Apple Cinema High Density Display 30 inch の
画面上の画像なので画質が悪い。
令和8(2026)年6月1日現在の iPhone13 標準型で撮り直すかもしれないが
ひとまず Mixi のフォトアルバムにあった画像をアップロードしておきます。〕
〔令和8(2026)年6月1日現在、カントのアンチノミー論を学び直しているので
これらの概念図は修正されるべきだと思いますが
平成2(1990)年11月5日に人生初体験で知った主観的な客観の動きの事実
に基づいて画像化した原型。カントの超越論哲学の内容を踏まえて、しかもその
延長線上にあるはずの理念の、統制原理によって検証可能な哲学として
生まれ変わった概念図を創造し直す必要が今あるのかもしれない。
この図を最初に京大大学院の授業で出した時の、指導教官や院生のリアクションを
踏まえて、カントを見習って「検証可能な哲学」にすべきだと判断している。〕
〔いくら「宗教体験」であるとしても、それは当人にしか「確実」でないことであり
当人以外が「検証」不可能な内容ならば「客観的妥当性」を欠く妄想として
他者の信頼を得ることはできない。そのことをカントはヒュームによって
教えられた為に「検証可能な」形而上学としての超越論哲学を新たに創始した。〕
〔だからカントが為し残した「宗教」の領域と「科学」の「架橋」を
カント以後の人類は課題として引き受けている。
シェリングが宗教の最高形態として提示した「哲学的宗教」は
カントの超越論哲学のように「検証可能な」形而上学としての「積極哲学」
であることが必要最低条件である。宗教は「検証不可能」と言って仕舞えば
宗教は「非科学的なるもの」として人々の信用を得ることを断念しなければならない。
しかし、だからといって「単なる理性の限界内」の宗教は、宗教ではなく
単に理性的な哲学でしかない。宗教が宗教でありながら、しかも「検証可能」
であるために必要な「方法」が解明され、示され、実行されて
誰もが「検証」できる「宗教」として新たに生まれ変わるのでなければならない。
シェリングが神話と啓示の哲学で示した哲学的宗教が完成型であるとは
シェリング自身も考えていないだろうし、実際、そうではないと言っている。
なので我々は、カントが認識論で為した「検証可能な形而上学」としての超越論哲学を
宗教に対しても適用できる方法を示し、哲学的宗教を、シェリングの時代よりも
前進させるべきだと私は考えています。〕
上の哲学概念図(宗教体験内容図)を
iPhone 13 標準型で撮り直したので下に同じ順番で並べます。
〔カントは、この図で言えば感性と悟性を『純粋理性批判』で扱い
意志までを『実践理性批判』で扱った。魂はカント哲学では理念である。
生命は有機体として『判断力批判』で扱われたが
有機体は目的論的判断力としての反省的判断力が扱った。
力動は物自体としてカントは人間の認識能力を越えると判断していた。
その考え方、つまり統制原理の働きは宗教体験を持っても維持すべきだと思う。
でなければ検証無しで主張することとなり、誤謬推理(Paralogismus)に陥るから。
万有内在超越に関しても「検証可能」である限りにおいて主張するのでなければ
超越論哲学ではなくなってしまう。超越論的実在論が可能であるかどうかは
検証可能であるかどうかにかかっている。人間の認識能力を越える実在は
検証できて初めて客観的妥当性を得るので、そうでない間は理念として統制原理に従う
のでなければ独断論に陥ってしまう。〕
〔図の円の中央から出る矢印は心の奥から意識とは無関係に、
意識よりも格段に強い力として、突き上げてくるエネルギーの流れを示す。
これは体験なので体験者には判るはずであるけれども、
体験が出ない間には気付けない動き。この「体験して初めて気づき得る事実」を
「検証可能」にする方法は果たしてあるのだろうか。
子を産む体験は男性には生涯不可能であるが、子を産む体験は
出産経験を持つ女性の間では検証可能性が保持される。
それゆえ出産経験により初めて知り得る事実は
男性には体験的には知り得ないので単なる知識として、それゆえ概念でしか
知り得ない事実であるが、それでも検証可能であるが故に出産経験は
「客観的妥当性」を主張し得る事実である。
それと同じく「宗教経験」もまた
「経験者にのみ知り得る事実」でしかないのであるけれども
宗教体験者が存在する以上、体験者のみに限られ、しかも宗教体験者の数は稀である
のかもしれず、大多数の人類によって共有され得るという事実ではないとはいえ
宗教体験は、客観的妥当性を主張し得る事実である。
そうでなければそもそも宗教が学問の対象と成り得ない。〕
〔時間的図式↑では左側へ進むほど過去で、右側へ進むほど未来を示している。
哲学的宗教は勝義の宗教であり絶対無の自覚の宗教であり学際的宗教であるが、
どれも超越論哲学的であり、同時に積極哲学的である宗教でなければならない。
なぜなら検証可能であることを主張するからである。単に学際的であっても
個々バラバラな学際であるだけでは超越論哲学的宗教とは言えないからである。
あらゆる認識が、発散しそうになる力を制御して収束へ齎(もたら)す力として
万有内在超越の通奏低音が貫かれている。しかしこれもまた検証が必要であり
それが検証されるための方法が示されなければならない。
その方法の最適解の一つが自律性療法の体系である。
けれども心身医学を学ぶだけでは超越論哲学は身に付かない。
単に医学にのみ精通するだけでは哲学的宗教は生み出し得ない。〕
〔シェリングは積極哲学で現実を扱い得る初めての哲学を創始した。
シェリングは自分自身の前期の思想をも含めて
本質を扱うことはできるが実在を扱うことのできないシェリング以前の哲学すべてを
消極哲学として批判し、これを前提としつつも消極哲学を克服する哲学として
現実問題解決の為の積極哲学を創始した。
その上で、神話と啓示の哲学を創始して、これを最初の哲学的宗教とした。
我々はシェリングが神話と啓示の哲学として開始した哲学的宗教をさらに展開すべき。
シェリングが1854年に亡くなって2026年の今年で172年経つ。
シェリングの哲学が現実の政治に対して持つ姿勢は現在では「反政治(Antipolitik)」
としてキャラクタライズされ、解明されつつある。
マルクスが構想した(社会主義社会を媒介とした)共産制社会は、
人類に、資本主義社会に替わり得る社会の希望を与えたが
マルクスの共産主義社会の構想が成功しなかった最大の原因は
ヘーゲル哲学の欠点を見抜いたところはシェリングと共通しているが
マルクスがシェリングの神話と啓示の哲学の真意を見抜くことができなかったこと。
なので我々人類は
シェリングの神話と啓示の哲学を踏まえた未来社会を展望する作業を
無限に続けてゆくべき課題(使命)を担っている。
神話と啓示を経て初めて人類が到達し得る哲学的宗教の境位、しかも
その哲学はカントの超越論哲学を踏まえたシェリングの積極哲学であり
そのような積極哲学的宗教の境位に人類が立つことができて初めて
資本制社会を克服し得る社会を我々は実現させることが出来る。
人類が皆、経て来た神話と啓示の意識状態の全過程を入念に辿り
これを認識の展開過程として位置付け直したシェリングの神話の哲学と啓示の哲学を
踏まえ、シェリングの「反政治」的な現実社会への向き合い方にも学んだ上で
今現在の世界情勢を判断して、これからの社会のビジョンを創造してゆくことが
AI 全盛時代の現代の我々に課されている使命だと私は捉えています。〕
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最終更新
令和8(2026)年 6月 1日 15時12分
令和8(2026)年 6月 3日 7時01分
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