このテーマは
何度か触れている。
人間は
人工的で論理的な理性
(nurture=環境によって形成されるもの)
を
最高と考え
自然で感情的な野生
(nature=あらかじめ備わっている能力)
を
見下す傾向にあるが
野生は
シェリングの言うところの
存在可能者(das sein Könnende)であり
それは
理性の根拠であり
理性の実在であるから
それ無しには
そもそも理性が現象し得ない。
カントが
理性の構成を
悟性と感性に区別した時
感性が実在側で
感性無くして悟性は現象し得ない筈なのだが
感性無しに悟性が独立して働き得ている
と
人間は考えがち。
論理は
情感を前提として
初めて意味も意義も出てくる
(情感を排除した論理は空虚であるとカントは警告していたはず)
ことを
悟性は
忘れている。
というか
悟性(意識)は
自分が生まれてきた
場所(感性およびその奥にある意志
さらにはその奥にある魂、生命、力動、
そして最も奥、しかもここは外部とも繋がる逆限定内在超越=神。
仏教とキリスト教の違い即ち
無神論(悟り)と一神教(啓示)の違いは
この内在超越を内在の範囲で留める仏教と
内在超越の起源が外在超越だと看破したキリスト教との区別。
しかし
支配と服従の思想圏内にあるキリスト教と
ヒエラルキー(階級制=ピラミッド型段階的組織構造)を克服し得る思想構造では
支配構造を超越する思想(仏教)へ軍配があがる。
ただし宗教には政治的意図は無いので
現実の権力構造を変革する力を
仏教は持たないのが仏教の限界である。)
そして
自分が帰る場所(外在超越者=神)
を忘却している。
(だからいまだに
「我々は何処から来て何処へ行くのか」
と問われるづける。
その答えは
「我々は神から来て神へ帰る」
なのに。)
意識は
自分自身の故郷を
知らないまま
現象しているが
意識(悟性、理性)の故郷は
野生(意志、魂、生命、力動、逆限定内在超越)である。
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最終更新
令和5(2023)年8月22日 16時28分
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