mixiユーザー(id:2223977)

2021年04月04日16:10

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解決不能問題に対する判断と行為

宗教であれ
哲学であれ
現実問題が解決できなければ
無意味だと思っていた。

しかし現実には
「死」
や
「偶然の不幸との遭遇」
など
「不可避の解決不能問題」
が
厳然する。

この
「解決不能問題」を
「ゼロ」に
「出来る(いかなる問題も解決できない問題は無い)」
と考える
と
解決できない場合に
「鬱」になる。

そこで
私の母の姉の長女の方が
「解決が全てではなく
 解決でけへん事に
 どう折り合い付けるかやん
(解決が総(すべ)てではなく
 解決できない事に
 どう折り合いをつけるか
 ということ(が大事)じゃない?)」
と諭(さと)してくれた。

カントは
解決できないと思われた
「二律背反(アンチノミー Antinomie)」
を「解決した(解いた)」
のではなく
「折り合いの
 つけ方
 を示した」
ということだった
のかもしれない。

「どっちが正しいねん」
と
「解決(勝敗を決する(白黒をつける)こと)」
を
求めるうちは
「イライラ(自分が勝者に成らない限り)」が
継続する。

「どっちも正しいし
 どっちも間違っている」
という
カント的な判断が出来れば
「イライラ(勝敗が決しない苛立ち)」は
解消する。

カントは
アンガー・マネジメントの
達人だったのだろうか。

「怒り」とは
「思い通りにしたいが
 思い通りにならない」
時に発生する感情。

「相手」が居て
その「相手」が
自分が考える「規則」なり
自分が考える主観的決まりごとではなく
客観的なルールや法律を
その「相手」が守らず
注意しても
一向に聞かない場合

その時
感情を動かさずに
居ることは
その「相手」が
自分以外の
不特定多数に
自分に行ったのと
同様のことを行って

不特定多数の人々が
迷惑を被ることに
平気で居る
ということになるが
それで良いのか。

自分に対する迷惑なら
自分一人が我慢すれば済むことだけど
自分以外の人々が
迷惑を被る可能性を
放置することが
「悟り」だとは
思えない。

私の父は
私の鼻炎を心配すること
に始まったとはいえ
その問題を
西淀川全体から
大阪全体へ
さらに
関西全体から
日本全体
さらに
世界全体へ
広げて(普遍化して)

環境再生の問題に
取り組んだ。

私も父に倣って
教育環境の汚染問題の
再生に取り組みたい。

その場合も
問題になるのは
(「腕の見せどころ」となるのは)
「解決不能問題
(利益相反ならぬ判断相反の問題)」
だ。

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最終更新
令和3(2021)年4月4日 16時21分
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